10個のチャクラシステム・レベル3 各花びらをマスターし自己を表現する

¥160,000

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説明

これは、「サンギタ ラトナ カラ」と呼ばれる経典に基づく、10個のチャクラシステムで、音楽やご真言など、音の波動を使う人々のために作成されたエネルギーシステムですが、チャクラとその花弁を通して、真の自己とは何者かを体験するという目覚ましいシステムです。

チャクラと全ての花弁に、悉曇・梵字の名前がついていますが、それを、悉曇の波動を使って探ることで、真の自己を、詳細にまでピュアな波動として体験することが可能になります。

毎月、一個のチャクラのペースで学ぶ、10個のチャクラシステムの集中トレーニングコースで、一つひとつの花弁を、悉曇の波動を使って体験することに加え、花弁の目的やその進化や、その波動を意識的に使う方法などをチャネルしながらご披露します。

たとえば、ある花弁は鬱の波動を保持していますが、私たちが憂鬱になる理由や、そこから脱出する方法も探ります。憂鬱な状態は、実は休息の自然な状態です。落ち込んでいる時、私たちは、何もしたくなくなったり、何もできなくなっていますが、そこで鍵となるのは、そのプロセスを理解し、休息を取った後に、必要に応じて再スタートすることです。憂鬱な状態に対する良し悪しを手放す時、それが単に道具であり、病気ではないことに気づかされるでしょう。

また、王冠のチャクラには、千枚の蓮の花びらがありますが、その花びらの一枚いちまいが仏の波動を宿しており、千仏の波動を自己のもたらすという、無限の可能性を探ることができます。これらの花びらを土台に自己を体験することで、真の自己が表現された現実を生み出す手助けとなります。このセミナーでは、合計85枚の花弁を一つひとつ丁寧に探るほか、千枚の花弁の役割も探求します。

ここでは、私たちが、人としての身体を持ちながらも、ヴァジュラサットヴァ(金剛薩埵)として生きるとは何かを、その深みにまで見出していきます。

10個のチャクラとヴァジュラサットヴァを、一つに融合することで、より充実したヴァジュラサットヴァのオペレーティングシステムを構築します。

真の自己として、またヴァジュラサットヴァやジナニン(ジナーナから生きる存在)として生きたい方には、極めて重要なステップとなるでしょう。

レベル2を学んだ方からは、これほど自分の意識がシフトするとは想像してしなかったとか、真の自分とは何かをやっと実感をもって探ることができたといった、喜びのコメントがもたらされています。

どのようなエネルギーであるのかを垣間見たい方は、弊社HPの無料スペシャルセッションをお試しください。10個のチャクラシステムとはどのようなエネルギーシステムであるのかの概要についてのお話と、それがどのようなエネルギーであるのかを垣間見ることができる短い瞑想も収録されています。

このセミナーには、各チャクラの流れや花弁の使い方を理解する手助けとなるワークブックも含まれます。

【第1チャクラのご感想】

・「10個のチャクラシステム・レベル3」は、1つ目の瞑想では意識を失っていました。(記、体験を記憶に残すことができなかったといういう意味)
2つ目の瞑想は意識を失わずに体験することができましたが、ステップ3で実現したいこととして「喜び」を探りました。
今、知っている方々や知らない方々、仏様も出てこられたりと貴重な体験となりました。
今後の日常での変化を観察して行きたいと思います。

・第1チャクラの1枚目の花びらのステップ2で、自分の思いが形になって現れていることに気付きました。
コロナに感染したら、自分がどうなってしまうのか?
どう対応すればいいのか?
以前から、感染が拡大する度に不安が付きまとっていたし、仕事は、年末からずっと忙しかったので、腰痛もあり、少しお休みが欲しいなと思っていたのです。
 
また、レベル3の初回セミナーにオンラインで参加したかったのですが、30日は仕事なので仕方ありません。12時からのリニューアルセミナーも参加したかったのですが、こちらも諦めていました。
 
30日当日、朝、出勤支度をしていたのです。
そこへ家族から、コロナ感染疑いの症状ありとのライン連絡。(微熱とのどの痛み)私も感染の可能性があるので、仕事を休むことにしました。
 
感染疑い時の対応について、日曜だったので、自治体ではなく県の方に問い合わせをし、隔離中の家族の体調に合わせた準備と、出来る範囲の消毒をしたら、あとは月曜日にPCR検査を待つだけとなり、リニューアルセミナーと、レベル3の初回セミナーにも、思いがけず参加できることになりました。
感染ということ自体ただ怖くて、意識の中では縮こまっていたはずなのに、家族が感染したかもしれないと知ると、やるべきことへと動き出していました。
 
コロナ感染時にどう動くのか?
お休みが欲しい。
オンラインセミナーを受けたい。
 
自分が体験したいと願っていた事が、3つとも叶ってしまった事に気付きました。
 
私がコロナ感染で恐れていたのは、どう動いていいかわからない・行動できないという事だったのではないか?と思い至りました。
家族が感染したら・・という所から始まった今回の出来事は、自分が知りたい・体験したいと思っていたことでした。
家族のPCR検査結果は陰性で、翌日からの症状もほぼなしでした。
形に現れるまでどんな段階を経ているのかまでは探り切れていませんが、自分が現実を創っていると見せられた出来事でした。
 
ステップ3では、今回の体験から得たことをどう伝えていくか。
どう工夫・改善していくか。
自分がどう変わっていけるのか。
その可能性を探ることができました。
 
「夢からスタートする」と言われていたことが、腑に落ちる体験となりました。ありがとうございました!

・最初の瞑想ですが、非常にパワフルなエネルギーだったためか、開始直後からほぼ意識を失っていました。心地よかったのですが、具体的な体験を持ち帰ることはできませんでした。
瞑想終了直後に悉曇カードを引いて、意識の波動をチェックしたところ、TA(如如とした有り様)でした。左脳が全然働いていないような、ぼーっした感じでしたが、どこまで
自分の意識が広がっているのかも分からない感じが TAなのでしょうか。そして、今の瞑想に対するアドバイスとしてもう一枚のカード引いたところ、BA が出ました。そこで、「瞑想中に私は何に執着していますか?」と尋ねて3枚目のカードを引きました。すると、上に点の付いたN(仕分、整理すること)でした。体験を左脳が理解できる形で整理したいという執着があったようです。意識を失っても深いレベルでは体験できていると信じて2つ目の瞑想に進みたいと思います。

・まず初めに、年明けからの私のエネルギーの低下(低下しているような錯覚)が、今日の瞑想で一気に払拭されたことをご報告させてください。素晴らしいトランスミッションと誘導でした。

2つめの瞑想を行った感想をお送りしたいと思います。
特にステップ2において、過去に物事を望み、関わり、完了させる喜びを味わったというものを見ていったことについてです。
過去に、人生の後半に大きな影響を及ぼしたことで完了したことを見ていきました。私の人生にはたまに、恩寵としか思えない出来事が叶い、感謝するということが起きますが、この出来事が形になったのもピュアに望んだからでした。
最初にそれを望んだ時点(開始した時点)は観音様にお願いをした9年ほど前で、完了したのは8年ほど前のことです。殆ど奇跡のような出来事でした。

それは人との関わりなくして形になることはできなかった訳ですが、誘導に従って進んでいくうちに、そこに関わったあらゆる人物や、一見、直接的には全く関わっていなかったと思っていた人々も含め実は全てのパーツ(人々、物質、社会情勢、エネルギー)がパズルのように完璧なタイミングで生まれ、揃い、組み合わされた結果であることがわかりました。
また、魂や過去生レベルの同意がなければ、形にならなかったであろうということが判りました。
更に進んでいくと、始まりの始まりは1つに集約されていきました。それは、あたかも特にその出来事に深く関わった相手、人々、自分も最初は一つなのだというものです。

この地上で波動を形にするためのそれぞれの役割を分担することが個々の存在として予め決まっていた感じなのです。非常に役に立った出来事であり嬉しい出来事だったのですが、それを完了した時に感謝を観音様と宇宙と人々に放ちました。そして、同じ波動でもそれぞれの人によって現し方が異なり、更にその無数の組み合わせである人と人との瞬間瞬間の関わりや関わり方の
強弱が、無限の創造を生み出しているのだと感じました。
あらゆる次元ではそれぞれ異なる役割を分担して、全く異なる創造を無数に行い合って体験しているのが、永遠の生命である私達なのだろうと感じました。元はひとつの生命が無限に個として分散して、体験を通して生命そのものを知るという繰り返しをしているようでした。ステップ3では、高次の恩寵のエネルギーが本当に素晴らしくて、瞑想の中で感動していました。

・第1チャクラの2枚目の花弁のステップ1の瞑想についての感想です。
光と意識のボディがオープンになった瞬間、初めての真っ白く純粋そのものの感じがする強い光に包まれました。
その光は一旦弱まったリ、全体に広がったりしていました。

ステップ2、3と進み、未来におけるスピリチュアルなことがどのような形になったかというと、白い光、白いスペース、やや地上に意識を戻すと、真っ白い海、何もかもが白い光に溶けている非常に美しい情景と意識が一つになるという体験をしました。
具体的ではないのですが、瞑想からゆっくりと戻ってくる時に、今の体験を言葉、歌、行動、あるいはその居るだけの状態でもエネルギーとして放つ体験ができるようになるのだなと感じました。

更に、目覚めた者たちとも一つの意識を構築し、それを拡大していくイメージがありました。意識を完全に地上に戻す直前には、白い光の柱が空間があちらこちらに立上り、少しスパークしている柱もありました。この瞑想では、誇りを感じた部分から一気に自分のエネルギーも意識も高まり、体験が急速にピュアな白い光そのものとなっていきました。

・第1チャクラの2枚目の花弁までとは異なり、3枚目の体験が浅かったかも知れないと瞑想直後に感じました。
すると、それは流れに共鳴することに抵抗が生じていたので、体験の形に拘ってしまったと、悉曇王とのカードを使っての対話でわかりました。
多分、左脳がやや働いてしまったのだと思います。
そこで、4枚目の瞑想に入る前にサポートとなる私のクロコアイトの波動(下に・のあるR)を唱え、瞑想中の言葉の理解とか誘導の言葉自体を追うことも手放すことにしました。

4枚目の体験では、ここまでの全ての体験や体験したとかしなかったとかいう記憶すら手放し、全身で波動を浴びました。
何かが起きているようでしたが、理解することを放棄しましたので最後の瞑想の体験を言葉にすることはできませんが、瞑想の終盤では、日常レベルでもAH(下に・)になっていくのだなと一瞬感じました。
意識を戻した時、頭と身体のエネルギーが非常に軽く、すっきりと清々しくなっているのが感じられました。身体の中に若いエネルギーすら感じることができました。

【第2チャクラのご感想】

瞑想「まだ生じていない世界から形を創造する」はステップ2の途中から意識がなくなってしまいました。
 
瞑想「1枚目の花弁」では、1枚の花びらを体験した際は4つのボディを使ったことで深みや厚みが増していくのを感じました。
カオスを感じた際には、今まで感じていたよりも更に先(⁉向こう側⁉)に波動を追って行けそうな感じがして印象的でした。
 
瞑想「2枚目の花弁」では、瞑想から戻った時には自分がボーっとした状態になって覚えているのか覚えていないのか分からないような不思議な感じでしたが、意識は飛んでいないと思っていました。でも、アナさんのお話しを聞いて自分が何処かに行っていたことを知りました。
 
瞑想「3枚目の花弁」では、“瞬間にある誇り”、“誇りただそれ”という感じで新鮮でした。瞑想の中でgarva「行動への誇り」の体験をした後、「空(くう)」を感じました。「空」は、ニルマナカヤでは突き抜けるような青空として、シャンボガカヤでは微細な光として、ダルマカヤでは無限の可能性を感じる空(くう)、スババビカカヤでは静寂と満ちた中にありました。
 
アナさんがセミナーでお話ししてくださった「誇りにしがみつく自分」をこのところ強く感じていました。なかなか解消出来ずに何度も同じ過ちを繰り返しながらも、あの手この手と試して少しずつは少しずつ変化していました。
 根底に自分の渇望(誉めて欲しい、認められたいとか)が関係していることは感じ、自分を誉めようと努めていましたが、慈悲慈愛のお話を伺い大変参考になりました。
 
今日セミナーで「空」を感じた時、「行動への誇り」の御褒美のように感じ、誇りにしがみつく自分が少し緩んだように感じました。
 
このような日々の体験の中で分離、良し悪し、執着、幻想で人生を創ってきたと強く感じていますが、10個のチャクラシステムのセミナーに参加できることに感謝しています。セミナーを開催して頂き、ありがとうございました。明日のセミナーも楽しみにしています。

【第3チャクラのご感想】

有難うございました。今まさに自分に起きていることの全てが網羅されているセミナーですね。リアルにフルに体験する機会となっています。

1枚目の花弁:

最初の1枚目の瞑想では、本当に深い眠りに入っていました。

2枚目の花弁:

2枚目の渇望の花弁では、自分の愛犬にまつわる「再び触りたい」とか、「愛犬と一緒にいたあの時の幸せな意識をもう一度リアルに体験したい」とか、そういった渇望が溢れるほどに出てきて、渇望の感覚を全身で感じました。

3枚目、4枚目の花弁:

自分では他者への羨望であるとか誹謗中傷までを行っていないと思っていたのが、実はそこも明らかに行っていて、奥深くに潜んでいたことがわかりました。そして、過去にも相当数、実際に口に出して誹謗中傷していなくても心の中で散々行っていたことが明らかになりました。
「自分はこんなに汚れた意識でいたのか」と悲しくもなりましたが、溜め込んできたそれを手ばなすために、そういう癖を解消するためにこのセミナーに臨んでいるのだなと思いました。

Ekaagrataの瞑想では、愛犬関係の渇望とそれに付随する意識だけでなく、現在では既に薄らいでいた今世で失ったと思って渇望の対象になっていた生家での幸せな時間や亡くなった肉親、あるいは兵士だった過去世で失った片脚や、その過去世で脚を失わなかったら得られるはずだった完全な生活への渇望や夢といったものまで出てきました。そして、SNSで明るい光を放っている優しい人やそのような姿を惜しみなく前に出て表現されている人々への羨望が現れました。また、常に前向きな人々を「常にそんな状態であるはずがない」と心の中で批判し、仮面を被っていると決めつけていた自分が明らかになりました。

Ekaagrataの波動によって、随分と自分のエネルギーが楽になりました。
何も考えずに、すっと意識がワンネスに移行し瞬間があり、その状態を味わうことができました。

5枚目の花弁:
 
愛犬への執着が凄すぎたせいか、4枚目の花弁に意識が戻るということがありました。愛犬そのものへの執着とともに、愛犬を頭からコンクリートの上に落とした女性への憎しみの感情もこの時再び湧き上がってしまいました。次に、若かった頃の主人と身体的エネルギーに満ちていた頃の自分、つまり若さへの執着もあることがわかりました。変化を受け入れられない意識に気づきました。また、過去においてお金に対して凄い執着を持っていた時のこと、それに伴って友人の一人と諍いがあったことも思い出しましたが、そこは感情が全く伴うことなく記憶が通り過ぎたため、そこは卒業したかも知れないと感じました。更に、ずっと行っていた不動産鑑定よりももっとやり甲斐のある仕事をしたいという「素晴らしい仕事」への強い執着があったことと、その場合の「素晴らしさ」そのものが幻想だったことに気づきました。

5枚目の花弁の瞑想での学びは、これらの全てが「個としての自分が一番大事でそれ以外は自分ではない」という分離から来ているものだと気づいたことです。ポジティブもネガティブも含めて幻影である自我を手放すことが大事で、既に手放せてきたもの、手放したつもりでも未だ残りかすがあるもの、全く手放せていなかった対象があることがここで理解できました。

6枚目の花弁:
 
過去生でも今世でも、大切な存在が死んでしまい苦し過ぎた経験をしていること、大切な者を失った過去生ではその後の人生を死んだように生きたことがあったこと、今世でもその過去生と同じようになってしまうのではないかという根本的な恐れが沸きあがりました。
 
ここで、自分を大切に育てながらも執着を解放する必要があると感じました。

愛犬を躾のためにと叩いたことにとても罪悪感を感じていて、それを持ち続けてこの先も生き続けなければならないのかという恐れと、過去生では母として経済力がなくて貧しさのあまり子供を守れずに死なせてしまったことと、そこから生まれた罪悪感が浮かび上がりました。
ここでの学びは、できることならワンネスの状態で愛すべき存在、守りたい存在をその瞬間に愛して守り、その瞬間瞬間に最善を尽くすことが大事だということです。

過去に執着せずに瞬間に最善を尽くしながら、同時に「過ぎ去っていく今」の時間を解放していきたいということです。

7枚目の花弁:

ウクライナの街で、ロシアの攻撃によって亡くなった女性の飼主を健気に自宅の玄関前で待ち続ける犬が憐れに感じました。また、ウクライナから脱出しようとすればできたのにも拘わらず、家や土地を離れたくなくてその場に留まり、その結果殺されてしまった民間人が憐れに感じました。強い愛着・強い執着がもたらす末路を見せてもらった感じです。
愛犬を叩いた自分の罪悪感は愛犬への強い愛着が生み出したもので、それも過去への執着なのだと瞑想の中で理解しました。
戦争にしても個人的な関係性やイベントにしても、全てが変化していくにも拘わらず、変化を受け入れたくない背景には善悪、好き嫌いなどの良し悪しがあるのが更に明確になりました。

8枚目の花弁:

かつて癌が悪化して亡くなった父が末期の頃、電源が入っていない真っ黒いテレビ画面を恐ろしいものでも見るような表情で長い間、食い入るように見つめていたのを思い出しました。それを見た時の私は胸が潰れるように苦しかったのです。
父の気持ち、恐怖、後悔など、諸々のものを感じましたが、父の悪化していく体調とともにメンタルもどんな境地なのだろうと非常に案じつつも、自分には寄り添うことしかできませんでした。父から、生きることへの執着がどんなものであるか実は教えられていた気がします。
同様に、愛犬が亡くなるまでの間、その子の病状が悪化していく中で、どうしてあげたら一番良いのか迷い、まさに混迷の中で暫く暮らしていました。

形ある世界、変化していつかは地上から消える「身体の五感で感じ取れる対象」に執着をもつと、結果として自分の無力さを知ることになること、感情で流れに逆らっても無駄なのだと瞑想を終えた時に思いました。

9枚目の花弁:

瞑想の冒頭から各花弁の瞑想に至るまでの間、何故か集中力を欠き、気が散っていました。
9枚目の花弁では愛犬を触った時の柔らかい感触が蘇り、また、子供の頃に寝床に入った私と弟が寝付くまでの間、祖母が私達の身体を心地よいリズムでポンポンと軽くたたいてくれていた時に私は幸福感を感じていたことを思い出しました。
そうした過去の折々の幸福感に浸った後、その反動で今はその対象が地上には存在していないという思考が働きました。すると喪失感に繋がり、瞑想の中で停滞感が広がりました。やる気が起きなくなる日常での流れも幾つか現れました。
思考で過去と現在を比べることも同様に鈍さに繋がりました。
その後のkasaayaの誘導で背景を見た時、対象と離れたと感じることから生じる淋しさがあることがわかりました。

同時に、過去生や今世での地上での経験から、人格レベルでは愛着あるものを失うと寂しいということを知っているからこそ、愛着やその場の心地よさを留めたくて執着に変えてしてしまうということもありそうだと感じました。
ここで、少し胸の苦しさを感じました。

10枚目の花弁:

うつ状態を体験する誘導では、特に日常とあまり変わらず馴染みがある感覚でした。
体験が浅かったのか、あるいは日常が既に鬱状態なのか分かりませんでした。
呼吸に意識を向けたあたりから、身体、特に息苦しく感じていた胸が楽になり、思考が浮かばなくて軽い感覚になりました。以前、ヒマラヤの僧侶がマスターされる比率呼吸を練習していた時期がありましたが、それらの比率呼吸よりも今回この10枚目の瞑想が本当にマインドをコントロールできるのだという実感がありました。

第3チャクラ全般:

先日のチャクラセミナーありがとうございました。その中で、執着を探った時、思いもかけないことに気付かされました。それは、私の中にいつもある「相手が幸せになることが、私の幸せでもある」というのが、執着だったということです。美味しいものを食べさせてあげたい。喜ぶものを送りたい。それすら執着だったことに気づきました。
執着は、「良かろう」と思うことの中にもあるのですね。
そして、それ以来、思考がなく、感情がなく、でもいつものように生きている。そんな変な感覚を体験しています。

楽のサイクル:

sukhaの波動に満たされた時、過去の豊かさに満ちた感覚を過ごした瞬間瞬間が蘇りました。ゆったりとして、何もしなくて良くて、「これでいいのだ」という言葉がぴったりと当てはまる感覚です。時間が止まっているような感じもありました。
このsukhaを日常で体験している時は、その状態を願望していたから得られたわけではなく、寛いだ瞬間に自然にその状態に入っているのだと思いました。

一日のうちでも、時間が止まったような空間に自分がいるなと感じることがしばしばあります。そして、そのうちには「心地良いけれど、このままで良いのか? 次にすることは? 何かとても素晴らしいことを行わなくては時間の無駄になるのではないか」という思考が頭に浮かんで来るのです。この流れが日常の中に頻繁にあることは、元々少し気づいていました。単に自分の思考の癖だと思っていましたが、人間にとって自然に起きる状態だと知って、安心しました。

苦のサイクル:
次のduhkha以降を体験したら、duhkaが日常で簡単にparaapakaara cikiirsyaaに結びついてしまっていること、その意識の流れを放っておいたり繰り返し同じ対象に対して感情を体験していると、それが dvesaの状態をもたらし、結果的に強い憎悪の思考と感情が一体となったものが巡り巡ってしまう、という癖を自分が持っていることがわかりました。
しかも自宅でいうと、例えばお風呂場などの決まった場所でそれが起き、場所と憎悪の相手もアンカリングされているようです。何故そうなるのかが不思議です。
瞑想では、paraapakaara cikiirsyaaでは単なる悪意、敢えて言葉にするならば「あ~あ、人生ってこれだから嫌だな、面倒だな」とか、「あの人の行為は嫌だ、一体あれは何なんだ!」という感覚です。日常レベルでは「人生とはこうあるべき」とか「人間とは正しくあるべき」という思考に感情が結びついた時に起きています。
更に、瞑想でdvesaを体験した時は、意識した相手や出来事が悪意の場合と同じなのに、身体が非常に不快感を伴なって火照り、激しく発汗もしました。ここで、この波動が深くDNAに結びついているのだなと感じました。

次にkarunaを体験すると、凄く熱くて発汗していた身体の反応が自然に収束し、特に鳩尾の辺りと重苦しかった肩と首の後ろが解放されました。身体もエネルギーも軽くなりました。
過去生も含め、テーマ毎、出来事毎、相手別になど、何度もこの瞑想を行おうと思います。

徳のサイクル:

まず、punyaの純粋な波動を感じすぐ、目の前に透明な水が入った水差しが現れました。
ただの水が入った器です。瞑想が終わってから、不浄がないただの水として波動を視覚で表現したのだと思いました。
次に、幾つかの過去に自分が行った行動のシーンが出てきました。
瞑想が進むうちに、それら複数の行動の中はpunyaの純粋な行動の現れとして終わったものと、そこで終わらずにasuuyaに共鳴して怒りを感じるイベントにまで発展したものとの2種類がありました。

Muditaaの波動を感じると、この2種類の行動の底辺を観察することができるようになりました。
怒りにまで発展した行動の底辺にはいずれも、「この行動はこの私がやらなくては」とか、「目の前で転換している状況が良くないから改善してあげなくては」とか、「不道徳で理不尽な場面に遭遇して泣きそうな顔をしている目の前の女性を何とかしてあげなくては」とか、「この人は理解すべきだ、理解する方がこの人は楽になるに違いない、だからこれを伝えよう」など、そこには相手に対する私の勝手な思い込みや判断がありました。
良し悪しの判断を下す自身の在り方にも、自分には常識的な判断を下す能力があると信じて常識を疑わない自分自身にも執着があることがわかりました。常識イコール自分という位置づけが生きていく基本だと思い込んでいました。
相手が私の助けを必要としていないのに「私が助けるのだ」という、エゴからの衝動を押し付けるような意識が裏で働いていました。

punyaが怒りに移行する1つめの理由は上記でしたが、更に別の理由にも気づきました。
上記で気づいた自分のエゴや執着に非常に酷似した部分を持つ人たちが相手の場合、私がとった「不浄に支えられた徳」の言動の不浄な波動に相手が反応することで、まず最初に相手が怒り、次に相手の感情表現への反応として私の怒りに火がついたのだ、ということです。これがpunyaが相互の怒りに発展して事態が混乱してしまうお決まりのパターンだったようです。これは身内だけに限らず、何人かの相手との間で起きていました。エゴの執着や良し悪しの判断に気づくために、こうした状況や相手が目の前に現れていたのだと思います。
これは、前回セミナーの「苦」のサイクルでも同じことが言えます。
相手も自身の不浄に気づくためにその時々の私が目の前に現れていたのだと思いますが、気づくかどうかも含めて人それぞれであり、そこも自由なのだと今は思えます。

不徳のサイクル:

徳と無徳の両方に、同じイベント、同じ相手も出てきました。中には、相手によっては不寛容まで行って、また徳に戻り、怒りとなり、無徳から不寛容にまで至るという繰り返しが起きていて、それが日常での普通の状態になっているケースまでありました。
そこには、とても多くの良し悪しが介在していました。必ず健康でなければならないという身体に関するものや、意識レベルのものまで、数多くが含まれていました。
最近では特に、良し悪しを付けている他者の言動に敏感になっていて、他者が物事に良し悪しをつけた瞬間に「この人は成長すればいいのに」という上から目線で良し悪しをつけて、それを言葉にはすることは無くとも、成長を押し付けたい自分がいることを強く感じ、ここを何とか改善したいと思っていたところです。
赦せないと感じていた相手や状況にupekshaの波動を用いたら、凝り固まった感情がすっと消えました。

【第4チャクラのご感想】

第4チャクラ全般:

今回の設定では、今までとは異なる感覚のカヤを感じ、マニも全く異なるものを体験しました。

1つ目の瞑想でアナハタチャクラを体験し、ビルさんが誘導の中で「フリダヤ」と仰った時にダリア(花)のようなクリアで輝く立体的な構造体が胸のあたりに浮かんできました。

2つ目の瞑想では、ダルマカヤ、シャンボガカヤ、ニルマナカヤを使っている時、特にフリダヤを意識していないのに、フリダヤの花のような構造体がクルクルと回っているのを感じました。スババビカカヤを使っている時には、組織体は消え全体に溶けている感じがしました。

1枚目の花弁:

1枚目の花弁の誘導部分では、プーニャ(徳)を体験しながら花弁を体験すると穏やかな感覚になり、身体も軽くなりました。今後の物質の世界での自分在り方の可能性を見せていただきました。ありがとうございます。

1枚目では様々なシーンや物が次々に現れては消え、瞑想中盤では一旦それが収まったかと思ったのですが、様々な色の花が次々と現れて空間が満たされていきました。美しい映像でしたが、こういったものが次々と現れては消えていくことに終始してしまいました。
瞑想後にチェックした自分の意識の波動は AI です。

2枚目の花弁:

2枚目の花弁を体験し、更にラトナに関して理解が進むような感じがしました。もう少し探ってみたい感じです。

2枚目もうつらうつらしながら、意識を戻してはまたぼーっとする体験でした。
瞑想後にチェックした自分の意識の波動はまずは BA で、何に縛られているかと悉曇王にカードを使って尋ねたところ、TA に縛られているとのことでした。
これは、マインドが如如とした有り様にフィックスされたということなのか、あるいは如如とした有り様の意識でいることに執着があるということなのかがわかりません。

3枚目の花弁:

3枚目の花弁を体験では、後悔していることはこれまで整理してきたのでないのでは…と思っていましたが、ひとつ浮かぶと次から次への出てきました。傾向として、自分の中では整理しているけれど、関係する人や相手はどうなんだろう?というものが多かったのですが、探っていくと浮かんでくるものは自分に行きつくという体験でした。どこまでも自分次第ということを痛感しました。

3枚目の瞑想では、後悔していることとして、第一に愛犬を叩いてしまった時のことが現れました。他の瞑想で随分薄らいでいたはずなのですが、あの瞬間の映像がまた出てきたのです。すると、アレルギー反応としてクシャミが何度も出始めました。
anutaapaを使うと、ここで一つの気づきがありました。それは、犬の意識もマンダラ・マントラレベルでは自分の意識の一部であり、それは過去においてもずっとそうでしたし、これからも変わらないということでした。つまり、後悔が生じる原因となった出来事があったからこそ、様々な瞑想による学びや今日の第4チャクラの学びにまで至っているわけで、マンダラ・マントラレベルの愛犬の徳が私に気づきをもたらす原因を作ってくれたということです。私はその時に無徳からを不寛容を体験し、叩かれた犬の方は悲しかったと思いますが、多分忍耐という形で徳を体験していたのだと思います。あの時には気づきもしなかったことです。
気づきと書きましたが、むしろ理解という方が近い気がします。
その他にも後悔していることが次々と浮かび、生まれてきたこと自体にも後悔したことも思い出しました。それに、極端なアレルギー性鼻炎を小学生の頃から患ってきたので、このような体質の人間として生まれなければならなかった両親と家系の存在にも後悔していることがわかりました。両親ともにアレルギー性鼻炎の持ち主です。それも意識にいれてanutaapaを唱えると、まだ続いていたクシャミがピタリと止まり瞑想中に鼻が快適になりました。人生全般の全ての後悔も意識に込めてみると、それらの後悔の原因となった出来事も登場人物も自分がとってしまった行動も、たった今体験している瞑想でのように、意識を成長させる原動力になっており、そのためだけに起きたことだと思えました。更に自分個人の意識の成長にとどまらず、全ての生命の意識の世界に貢献することにもなるのだと気づき、起きたことは一つ残らず必然だったのだと理解しました。

4枚目の花弁:

4枚目の花弁では、静けさの中にある可能性のようなもの、途切れることなく生まれる波動の可能性みたいなものに期待感や希望を感じているような気がしました。

【第5チャクラへの準備のご感想】

先週のセミナー後、第4チャクラの復習を始めたものの、途中から進まなくなり、他のものに気を逸らされ(逸らしてるのは自分だと頭では分かっていても、どうしようもなく夢中になってしまい)、珍しく夜更かししたりと自分の行動にも翻弄され、軌道修正することもできずに週末を迎え、第5チャクラに進めるのだろうかと不安に感じていたところでした。
 
加えて、今日の午前中、これまでに解消したと思っていた親への感情が大爆発し、お手上げ状態でセミナーの開始時間を迎えました。この状態で第5チャクラを受講して大丈夫かしら?と思っていたところ、第5チャクラへ向けての第3・第4チャクラに関するセミナーを開催いただき感謝しかありません。
 
最初と最後の瞑想は、最後の方の誘導では意識が飛びましたが、様々な体験をすることができました。
 
今回は午前中に爆発した親への感情を手掛かりに、セミナーで探ってみました。

最初の瞑想では、親との関係から探ったのに、第3チャクラのセミナーの時にも体験した生贄になったり、殺されたりしたことが出てきました。この時の自分の行動や感情から人生を生きることになり、同じようなパターンの人生を何度も生きたことを知り、自分のテーマ(ラトナでもあるのか?)のようなものを感じました。
 
2番目の第4チャクラの瞑想では、4枚目の花弁を体験する間、涙が止まらなくなり号泣でした。そして、自分への認識が変化していきました。初めて第4チャクラを体験した時とは違い、誘導でもあった「確固とした」ものを感じました。
 
最後の瞑想では、他のものに気を逸らされ夢中になるパターンにあった原因のようなものを体験することができました。
そこには拗ねているような諦めているような分離された自分を感じました。
第4チャクラで体験した確固としたスペースを知らないことからプーニャの流れを選択できずにいるように感じました。
 
誘導でラトナを体験した時、空(から)で透明な球のように感じました。ラトナを体験できたことは嬉しかったです。
 
4時間のセミナーでしたが、今は言葉になりませんが貴重な体験を沢山しているような感覚ともっと長い時間を参加者の方と過ごしたように感じています。セミナーを開催いただき、ありがとうございました。

【第5チャクラのご感想】

本日のセミナーを敢えて開いてくださって有難うございました。これまで見えていなかったもの、無意識のうちに避けて見ないようにしてきたことなど、様々なものに気づくことができました。

執着と分離を日常に呼び起こす原因とそれを繰り返すパターン化した自分、それに加えて今世の幼少期でのあるイベントにおける自分、そこに関わった家族のメンバー、幾つかの過去生が現れました。
そこには、共通する深いレベルで常に存在した「変わらない愛を羨む」という波動と、「自分は愛される価値がある」と思いたい欲求があり、その原因を人生で敢えて作り出し、生まれ変わってそこを何とかしようとしては転生を繰り返している意識があるのを見出すことができました。
それらの人物と手を繋いで波動を探っていくうちに、更に今の日常での身近な人物なども加わって手を繋いでいくという流れになりました。
その人々はもう他人ではなく、自分自身だと感じるようになり、更にはそうしたグループを超えて同じテーマを持つ無数の人々全員にまで意識が広がり、全員が自分なのだと感じました。
本日の瞑想の前半は、全員一緒にオープンになっていくプロセスとなりましたが、みんなと繋がった時、その意識のスペースでは非常に低周波の低い、重たい音が響いていることに気づきました。

日常レベルでの羨む(下に・が付いたD)波動の投影から始まり、スピリチュアルレベルも超えた、何か自分の意識では把握できないレベルにおける羨むような、懐かしむような感覚、敢えて言葉にするならば本来は一つ(ワンネス)のはずなのに個別の意識として存在している今の自分が、ワンネスを懐かしんでいるかのような感覚まで現れました。ですが、後述のとおり、このワンネス自体が幻想だということに、瞑想の最後で気づくことになったのです。

下に・が付いたDの波動は、過去に体験した「好ましい状況や感覚」についてはその時の五感を懐かしむような感覚で、それが今は無いという意識に変わると瞬時に空しさが現れる。更には過去のその状況と似たような体験を今現在している他者(集合体)が羨ましいという感覚にすり替わっている状況が何なのかがわかりました。また、羨ましい感覚を持っている自分に心理の奥底では嫌悪感をもっていたらしく、羨む気持ちから目を背けて、その他者たちのあら捜しをして心の中で批判する、という流れになっていました。

羨望や渇望の対象として持ち続けていた愛、形のある世界の視点から見ていたワンネス、二元を超えないまま意識する神や根源、自由と不自由さ、聖なる存在、そういったもの全てが幻想でした。

今日は、アドヴァヤを超えた意識の体験が、そうした執着を手放すというよりは、両極の意識が縄のように編まれて、一本に統合された感覚でした。最後の神の意識の領域では、何か自分がとてつもなく素晴らしいものに変化したというよりは、極端ではないとてもバランスがとれたような、ピタッとハマって丁度良いような感じを覚えました。新たな統合された感覚です。力強さもありました。
そして、感謝されているのも感謝しているのも、全体と一つである自身であるという体験では、全ての意識の層において時間と空間を超えて一つであるという感覚が非常に密度濃く広がり、とても静寂でした。この時、今まで抱いていたワンネスというものが幻想のように思えました。
この瞑想を行うまで、ワンネスとは近くにあって遠いもののように捉えていました。
今日は、ワンネスの感覚がガラリと変わり、ワンネスは意識の中に常に存在して、実は自分もそのものであることもできるという、そこに気づいたような気がします。瞑想後に悉曇カードを引いたところ、THA でした。体験を日常に活かせるようにします。有難うございました。

・今回のセミナーでは意識が保てない状態が多かったです。「仏教の天上への旅路」セミナーの後、感覚の変化を感じた瞬間がありました。
「この瞬間に神性の状態だったらどうなる?」と浮かび、新しい感覚やプーニャとアプーニャの調和とバランスを身に着けようとしているように感じました。日常生活の中で閃きなどが浮かび、流れとともにあるような感じを受けました。

第5チャクラに入る辺りから日常生活の中では無意識に見ないようにしていたことが表面化し、執着と幻想を体験しながら昇華する体験を
していた気がします。無理やり辞めたり止めることが困難で中毒的な状態にみえるものでも、そのもとになったものを見つけ、新しい視点
から理解すると良し悪しや分離を手放すことができることを体験して学びました。

本日のセミナーで感じたことは、神性の無限のスペースでは自分のエネルギーの小さな澱みでもハッキリ浮き上がるように感じました。
時間も空間も超えて存在する新しいレベルの体験に恵まれていることに感謝しています。今後、日常生活の中にどのように現れてくるのだろうかと思いながら、次回のセミナーも楽しみにしています。

非常に心地よい深い深い瞑想でした。清らかさずっと味わっておりました。7枚目の花弁では一度、白い花が活けられた鮮やかな水色の花瓶が現れました。花瓶には細く白い線でびっしりと幾何学的な線画が施されています。
水色の花瓶は光でクローズアップされ、それを見た時、白い線画が非常にユニークに感じました。清らかで、明るく、少しミステリアスな感じもありました。花瓶の幾何学模様は、宇宙の一つの表現なのだなと感じました。瞑想ではそのエネルギーが無限に広がっていたようです。

・昨日は夜が更けていくにつれ、奥の方にほんの僅かな違和感のようなものを感じ、すぐにそれが何なのか判らずに自分が少しイラついているのが判るという現象がありました。昨夜は瞑想まではしませんでしたが、今日になってからアドヴァヤとディヴィアチャクススを使ってそれが何なのかが判りました。

第5チャクラ7枚目では概ね確かに涅槃のような意識、眠りと深い瞑想の中間のような状態で、そこにただ在るような感じでしたが、一瞬だけ現れた白い花が活けられた水色の花瓶がピカッと光ったという、あの体験についてでした。
良い感じ、清らかな感じ、花瓶に描かれた線描画、それが何なのか、どこから来ていて意識のどの辺に張り付いているものなのか、という洞察です。

それはどうやらスピリチュアルなレベルにおける執着で、過去生も関係しているようでした。何らかの経典が線描画となっていたようで、それが神聖な感じがしたのです。ところが、7枚目の瞑想での映像の現れ方とその光り方に特徴があって、以前別の瞑想でインドラのネットのようなマインドを観察した折、そのネットが歪んで見えたことがありました。その時のビルさんのコメントは、それは地上への執着であるというものでした。その時の映像の現れ方、光り方と今回の映像のそれらが非常に似ていたのです。
そして、花瓶に描かれた線描画は、非常に似たものが別の瞑想でも現れてきていました。何らかの宗教の特定の清らかさとか崇高感と同じものに執着しているので、それが現れたのだと思いました。

もうひとつ洞察がありまして、その花瓶と花の映像にぴったり来るマインドの状態は、これまでの地上の日常の中でも時折感じていたものに一致します。そのマインドの上程とは、特定の心地よさや安心、あるいは愛犬や気の合う仲間の大好きな側面といったものに触れている時の、非常に限られた時間に特定された在り様です。

何度も何度も生まれ変わっている理由の中に、スピリチュアルレベルにおいて進化が止まっている執着があるのだと思います。1つでも執着があると他の神々との繋がりが見出せません。

今、「仏教の天上への旅路」セミナーの梵天から大梵天の世界に進んでいくところですが、その辺りとも関係していますね。28天は、一つ一つが、今私(私達)がセミナーで学んでいる歩みそのものが展開されていると思います。

・9枚目の瞑想では、ランダムな意識がただそこに在るという感じで、ありのままに、捉えどころ無く散らばっている感じでした。

10枚目の再瞑想では、前回の体験とは全く異なり、r.で一気に非常に高く引き上げられるような感覚とともにスペースに入りました。そこには、とてつもなく物凄いパワーを持つ、核融合のような膨大なエネルギーが満ちており、それが生き生きと躍動していました。スペースのどこを切り取ってもパワフルなエネルギーしか無いという感じでした。

少し赤っぽい感じがしました。そのスペースから外に出て使われるのを待っているエネルギーといった感じで、生命力そのものでした。スピリットの存在とはこんなにも凄いエネルギーを蓄えた生命力だったのかという思いで、本当にびっくりしてしまいました。

11枚目の再瞑想では、どこかに向かった感じはありましたが、一か所ではなく、何処なのかは掴みどころがありませんでした。というよりも、言葉にできないくらい多くの場所を同時に、凄い速さで通過しているといった感じでした。

12枚目は、明白な体験として持ち帰ることができませんでした。

13枚目は、徳川家康のシルエットが現れましたが、家康を英雄と思ったことは無いのに不思議でしたが、少し見ていくうちに、長く続いた戦いの時代(戦国時代)を収束させて、二百数十年にわたって世の中に大きな戦いの無い治世を実現した人でした。私は自分で考えていた以上に人々に平安をもたらしたいとか、浄化する手助けを精力的に行ないたいと内側では思っているのだなと気づきました。

13枚目のミニ瞑想では、レタスやキャベツなどの緑の野菜が現れ、食事に取り込んでいく様子を観察していました。ビタミンと食物繊維によって身体の浄化が進む様子を観察しました。

13枚目のミニ瞑想(№200)では、今コロナウィルスに自分が感染していることをpancamaを使って観察しました。慈悲慈愛の感情です。
そして、コロナウィルスは慈悲慈愛が人類に蔓延するチャンスをくれていること、私個人のレベルでは身体だけでなくスピリチュアルレベルでの浄化に役立っていること、従来より水分代謝に問題があることがコロナ感染によってより明らかにしてもらえたこと、それが第5チャクラと何故か関連していること、正しくpunyaとともに他者の浄化の手助けを行動として現実化していくことで、徐々にそれらが改善していく様子などが観察できました。

14枚目では、元気で健康的な明るい感覚がダルマダツーに生じ、それが徐々に満ちて充満する感じがありました。
今回の第5チャクラの一連の瞑想を行うのは2回目なわけですが、14枚目の瞑想を行っている時に、前回セミナーの時から今日に至るまでに願いが既に叶っているものがあり、そのための行動を起こしている自分を見出しました。
また別件では、秋に予定されていた所属バンドのライブがコロナウィルスの最近の蔓延によってキャンセルになりましたが、それすらもきっと延期になると思っていたのが現実になったのだと思います。みんなのためになることならば、思っただけで現実になって来ているように感じました。

15枚目でkaruna(慈悲慈愛)で、他者の浄化の手助けをするのが「自分とは何者か」の本質だな思いました。不浄を取り除いて本質を見出す手助けです。

【物事を形にする3つの方法についてのご感想】

manifesting の3つのメソッドを今行っています。
ただし、以前のように自分個人が必要としているもの、欲しいものが何なのかがなかなか出て来なくなっています。物質については、必要はものは既に手元に揃っていますし、個人的に欲しいものは今のところ何も思い浮かびません。意識を拡げて、他者が必要としているもので自分の能力を活かせる事柄は何なのかという視点から、浄化と意識と光の拡大に自分を役立てる場を実現する、というものを形にすることにしました。
ただ、1~2日でメソッドの効果を実感していということもありますので、今までで最も美味しい冷たい食べ物に出会う、ということをマニフェストすることにしました。

・実際に形になるかは、わからないですが、一番目のチャクラと花弁では細やかに拡がっていく感覚がありました。
2番目では、拡がっていく感覚はありましたが、一番目ほどは細かく探れませんでした。3番目ではチャクラと周波数ではイメージではなにかを 積みかさねていくような感覚でした。固体を積み重ねていくのが言葉にすると近いです。

【第6チャクラのご感想】

・3枚の花弁の体験をさせて下さって有難うございました。パドマカヤの恍惚感から、今日は主に2つの過去シーンを使って体験を観察することになりました。

1つは亡くなった愛犬と過ごしていた時の恍惚感、もう1つは過去のスピリチュアル体験で感じた恍惚感です。

2枚目の花弁のミニ瞑想では、maa-naの波動によって、もうこれ以上の素晴らしい体験は人生でないのではないかという感覚が蘇り、それはそこから先にはその分野においては成長や展開が無い、無くて良い、そこに留まりたいという欲求が底辺にありました。
これについては、スピリチュアル体験での恍惚感において顕著な洞察が得られました。
代わりにma-ana の波動になると、別の選択肢とその後の発展が見出せました。そこを自分は歩いていると気づきました。

3枚目の花弁の瞑想では、愛犬を抱いていた時に感じた陶酔感をずっと味わっていたいという感情、変わって欲しくないという欲求、その時のその感情の性質を永遠に留めたくて、そして何度も味わいたいという欲求があったこと、それが強烈な執着となったことがわかりました。それは、意識をmamaに置いていたことと、身体の五感で対象を感じ取り、「その感覚が最高で、それ以上のものはないに違いない」という信念のようなものに裏打ちされていました。

更には、スピリチュアルな感覚にも浸潤していて、寧ろ結果的にはスピリチュアル分野で3枚の花弁の流れがあってmama(自身)に意識を限定していたことにより、身体感覚の体験よりもその方が一掃強い執着になったと思います。ですが、結局は犬は形ある対象なので、失った時の喪失感と悲しみ・苦しみに苛まれる結果となりました。

過去のスピリチュアル体験での恍惚感とその体験への愛着についても同様で、その体験の仕方が最高なのだという思いが当時はありました。mamaのプライド を経過しているものだったので、恐れが出てきたのだと思いますが、恐れが現実となり、非常に好ましくない経験をする、という結果になりました。

自身(self)を常に超えた意識で、瞬間瞬間の意識に気づき続けながら行動していきたいと改めて思います。

・今日のセミナーはまさに今年に入ってから本日に至るまでに私が陥っていたところを見ることになりました。やはり愛犬への愛着が未だかなり残っており、時々思い出のスペースに入ってボーッとするようなことがありました。

snehaにいかに引っぱられていたか、人生全般において主にsnehaとmadaに引っ張られすぎたことにより、lubdhataaにジバを置き続けるという時期が時々ありました。当然、苦しみを味わう結果になっていたわけですが、過去においてはlubdhataaから生じる苦しみを、その後に飛躍するためのエネルギーに変える、ということも行っていたのがわかりました。

とても多くのエネルギーを消費しなければならなかったので、非常に疲れたのを覚えています。手に入らないと思うと貪欲になり、対象の個体そのものでなくても属性が同じならば、未来の自分にとってもっと相応しい対象を手に入れたり、生活に一部に取り入れていくことが今日以降は可能になったのだなと思うと、感無量です。ダルマカヤ、ダルマダツー、ダルマダツーのパドマカヤ、これらを使うと、とてもそれが簡単に行えそうです。現れた世界にのみ視点を置いて執着していたので、生じる前の喜びであるarati の存在に気づかなかったのですね。

7枚目の花弁の瞑想でarati から rati に変容して時、とてもキラキラした内なる静かな喜びが生まれました。
意識も身体感覚も、随分急速に軽くなりました。

12枚目の花弁の瞑想で、舌を上あごにつけて波動をずっと感じていましたら、頭上の少し上に、群青色のような濃い色をした、直径15cm ぐらいの雪の結晶のような形のものが現れました。

【第7チャクラのご感想】

Petal 1:
 とても深い瞑想スペースでした。瞑想の中で更なる瞑想をし、その中でも更に瞑想をしているかのようで、全部知っているような感覚を持ちました。
そして、瞑想から戻ってくる時に非常に時間がかかりましたが、意識を戻しながら、このチャクラの辺りに初めて現れた水晶のような発光体をずっと見つめていました。
終始、意識の奥深い所で、開いている第三の目というものを感じていました。

Petal 2:
 それぞれのレベルにおいて、幾つもの過去や新しい洞察もありました。
神聖な意識で宇宙の全てのために全てを捧げる生き方を選択するには、地上で経験することは完了していく。もっとできるとか、やり直せばもっと高いところに行けるということではなく、その時々の経験は経験として完了したものとしながら次の流れを楽しく生きることは、意識の在り様で選択次第であり、まさに可能なのだなと思いました。

Petal 3:
第7チャクラで受け取る情報に良し悪しを付けずに、無限に広がっている可能性に対して常にオープンでいることで、より第7チャクラで感じる能力が磨かれるように思いました。

【第8チャクラのご感想】

・5枚目の花弁
これまでジナーナはどこだか分からないけれど、どこかにあるもののように感じていました。ですが、ジナーナは誕生するもので、その生まれたてのジナーナの波動をこの瞑想で体験したような気がしました。
 “触れる”は、すべてである境がないところに境が生まれそれ(異なる波動)を感じるような感覚でした。
 
・6枚目の花弁
音は揺れのようで、すべてに広がっていくような感覚でした。6枚目の花弁にピュアな波動を降ろしたら他の花弁も調和され、第8チャクラが活性化したように感じました。
 とても美しいハーモニーの音を身体の耳ではないところで聴き、新しい音の世界を体験しました。リグベーダ、ウパニシャッドの奏でる音を感じることができました。
 
・1枚目の花弁の4つの感覚は、まだちょっと言葉にできない状況です。これから探って行きたいと思います。

「第10チャクラのご感想】

・「サハスラからパトラへの移行を体験する」の瞑想では、自分がラトナについて抱いてきた抵抗感のようなものが穏やかに溶けていくような体験をしました。最後の瞑想は、これからの自分の歩みにインパクトを残す体験でした。瞑想でタタガタの波動が誕生するまでのプロセス、大日如来尊の存在、無限、有、無、空などを感じ、在るという世界に波動として自分が誕生する始まり!?のようなものを感じました。そして、ジナーナと自分が一体になったような気がして、ここから更に新しい自分に出逢えるような感覚がある体験でした。 今年も様々なセミナーが開催され、受講する度に自分を知る機会を頂いたことに感謝しています。ありがとうございました。