説明
決断を下すのが一苦労という人生を、卒業しませんか。
人生は、決断の連続です。
しかし、決断を下そうとすると、家族や仕事場の反応や影響が心配、自分の気持ちも揺れるとなると、身動きが取れなくなり、決断が一苦労になっていませんか。
もし、良し悪しや後悔、罪悪感に基づいて決断するのではなく、クリアに決断をする方法があるすれば、どうでしょうか。
さらには、その結果もたらす自分の行いが、すべての生きときいけるものへ、等しく捧げる供養(プージャ)になるすれば、どんなに素晴らしいでしょう。
そんな方法があるのです。
それは、受戒(じゅかい)です。
十戒の波動を自分に統合することです。
しかし、それは、ただ規則に従うことではありません。
戒の一つひとつが、宇宙の生きた波動であり、目覚めた意識の流れなのです。
例えば、このセミナーで体験する「不殺生」という戒は、単に「殺生してはいけません」という規則ではなく、「すべての生きとし生けるものための平和をもたらす」という、宇宙の意識です。
それは、胎蔵曼荼羅の虚空蔵院の功徳がもたらす、自然な結果なのです。
そして、それは、即身成仏、すなわちこの身における悟りとしての表現となるのです。
【セミナー内容】
🕊️ 十戒を実践するための方法
カルマに基づく決断疲れを解消する
パマタ(究極の真理に基づく平等)から共鳴の鏡としての戒を体験する
十戒を規則ではなく、生きたエネルギーのフィールド(場)として迎える
それが、蘇悉地院(そしつじいん)の八仏とどのように調和しているかを学ぶ
十戒を行動の束縛ではなく、美しいプーニャ(供養)の周波数として体験する
パマタの悟りを通して、カルマ(業)の輪廻のパターンを解消する
即身成仏(遅滞なく悟りを開く道)にオープンになる― カルマを超えた自由
このセミナーは、外の世界に答えを求めることをやめ、人生をすべての生命への貢献、供養として生きるスタートとなるでしょう。
【受講者のご感想】
◯ 瞑想では、「今は、言っても理解できないだろう。未だそのレベルではないから。」という勝手な判断で出し惜しみをしてきたことを思い出し、なんて心が狭かったのだろうと恥ずかしくなりました。流れの中にいると全てが等しく尊く感じられて、自分が広がっている感覚になりました。セミナー後、蘇悉地院の金剛明王を瞑想しました。細かく振動している波動の中で、静かな喜びをずっとかんじました。
◯
《不殺生》
長男の有り様に分離良し悪しつけ相手を変えたいと執着しリアリティーを作っていました。
『理解することなくケアなしに決めつけたり発言するのは殺すことと同じ』
瞑想の中で私自身が他者にやっていたことだと気がつきました。
呼吸して気持ちを沈め相手の中に、慈悲自愛をみる、敬意を払う、上下なし肩書や地位 貧富 性別 年齢 国籍 履歴 人種など越えて等しくみることは、私にとってテーマです
《嘘をつかない不妄語の戒》
自分を騙すこと、自分が痛い想いをしたくないので向き合わず、見ないようにする、勇気がないので真理を語らない、が当てはまります。
『全ての言葉が相手の目覚めに役立つとする』チャレンジですが新しい教えを頂き深いスペースに入りました。
《酩酊するものを摂取しない不飲酒の戒》
幼い頃、大人が言い争いやケンカしていた場面が再々現れます。
子供たちが幼い頃、食事の場など私が度々言い争いを起こしていたことに気がつき、その場に居合わせていた家族たちは、幼い頃の私と同じように怖い想いをしていたのだと気がつきました。
《他人の欠点を語らない不説過の戒》
(私の代で終わりにしたいテーマです)
「相手に良し悪しをつけ、支配、抑圧、脅す、あげつらうことを変えたい変わって欲しい。自分はこういう未来を作りたいんだと求めれば求めるほど変化は起きない」ことに驚きました。
他者を変えたいとの執着が個人攻撃になり批判となりリアリティーを作っていました。
何がダメになったか語るのではなく批判を祝福に変える。
『他者の過ちを挙げつらうのではなく、話すことは供養の種である』は目覚めとなる教えでした。
《自分を褒め讃える他者を貶めない戒》
批判非難をするのが習慣になっていたことに気づき驚きでした。
兄のことや育った家族を蔑んで診ている自分がいました。
根底に他者を小さく診ている自分がいます。
引き金では特に、私のことは褒めてくれないの?や、語ることを諦めたり禁じられたりした内なる子どもの声が聴こえてきました。
どちらが上とか下とかなく、全ては等しい存在、誰かを小さく見せたり、誰か落としめることなく等しく感謝を持って進化を語ることは課題です。
《法の教えの出し惜しみをしない戒》
これもインパクトがありました。
与え受けとることが以前よりは流れ循環するようになりました。
知識、時間、情報、リソース、技能など無限のやり取り。分かち合うことはより大きな流れを生み出すこと。
家族のヒエラルキー 男尊女卑から出し惜しみされてきたパターン。
他者をコントロール下に置くこと。
人によって立場を変えたり良し悪しつけて出し惜しみしたり、相手が変化しない限り私の時間を提供しない部分があることや
只そこに居るとか耳を傾けるとか私の時間を提供すること、目に見えない贈り物を提供することは不得意なのでチャレンジだと気がつきました。
《怒り任せにならない戒め》
何度も現れる弱い子供という立場の兄をさらに追い詰めている父を傍観していた私は大人が子供を追い詰めるのかという怒りが幼いながらあったのだと気がつきました。
傍観者だった私が親となり全く同じようなことを子供にしていたのです。
そこに居合わせた家族はその時の私のように怒りが生じていたんだと思います。
つい最近、夫が怒りを私にぶつけてきたんですが、私が分離良し悪し、他者を変えたいという執着やまた昔と同じことをしていることから起こしたリアリティーだと気づきました。
相手自身が変化していくタイミングを待ち、敬意の想いをもって行動発言していなかったのです。
怒りに名前をつけ、怒り自体にならずエネルギーを変容させ貢献するために使うことは新しい学びです。
意識にお願いし、人格や内なる子供たちにわかるように新しい叡知を授けてほしいとお願いしました。
怒りに任せるパターンをもう私の代で終わりにさせるために。
人類や意識への貢献のために準備ができているところで拡張させて欲しいとお願いしました。
《そしったり、けなさない》
強烈な体験でした。
皮肉と下げすむ、けなす意識が私の根底に流れていることに驚きました。
破壊することなく語る要素が私の中に欠けていたことに気づきました。
だから相手が怒り、怒鳴ってくるのだと。
言動、行動、思いの底辺に無意識に流れていたことに気づかされ、
語っても誤解されることが多かった理由がわかりました。
そしてこれまで、けなされたり軽蔑されてきた人格や内なる子供たちがどれほど傷つき我慢してきたのかと。
カルマでも現れた『どうせどうせどうせどうせ…』の想いの嵐がまた吹き荒れてきました。
《最後の瞑想》
他者と私は同じ仏であると、他者の顔が仏像にみえました。
傷けられたことに対して許せない他者への想いがありますが、それは鏡、私自身だったということに気がついて自分に謝るようで抵抗がなくなりました。
そして、内なる子供たちが癒された感じがしました。
学びが起きるときは内なる子供たちに関係するのだなと感じました。
他者から学びの機会を与えていただいたことに感謝に気持ちが生じてきました。
新たな叡知と学びの機会をありがとうございました。