悉曇の視点から見た仏教の天上への旅路

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2022.6.4-5,7.2-3

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説明

密教の宇宙観では、二十八の天上界が存在しています。それらの天上は、瞑想を使えば身体をもってその数々の純粋な意識の状態を体験することができます。ここではすべての天上の世界を訪れます。

<瞑想内容>

欲望の天上(最初の六つの世界)

  1. 地に住まう神々の世界
  2. 空に住まう神々の世界

形のある天上(次の十八の世界)

③~⑥ 形の世界は、瞑想において四つの意識の完成させることで体験することができます。ここでは、その意識の状態を一つずつご紹介します。この段階には十八の天上が存在しており、セミナーではその天上のすべてに手短に触れていきます。

形のない天上(最後の四つの世界)

最後の四つの瞑想では、形のない天上への旅路を進めていきます。

⑦ ākāśānantyāyatana 空無辺処天―無限のスペースの天上

⑧ vijñānanantyāyatana 識無辺処天―無限の意識の天上

⑨ ākincañyāyatana 無所有処天―非存在の天上

⑩ naiva-saṃjñānasaṃjñāāyatana 非想非非想処天―思考も無思考もない天上

最後の四つの天上は、きわめて驚くような世界です。この形のない天上における最初の瞑想では、形のある世界から、私たちのマインドを切り離し、無限のスペースと一つになります。

二つ目の瞑想では、無限のスペースから、私たちのマインドを切り離し、無限なる意識と一つになります。三つ目の瞑想では、無限なる意識から、私たちのマインドを切り離し、非存在(non-existence)と一つになります。

最後の瞑想では、私たちのマインドを、意識にある思考や、非存在の無思考から、切り離します。これらの瞑想は、静寂さと、清浄さと、生まれることのない状態へと導いてくれるでしょう。これらの天上界を超えたところに、カルマを超えた仏の世界が存在しています。

【第2天のご感想】

・第二天の感想です。第三のストラテジーのとき7~10くらいの銀河が空間から飛び出して、それぞれの銀河がリングになり回転をはじめました。四天王のエネルギーが、残っていたかもしれませんが、火の鳥、鳳凰?かは、判りませんんが、出現し、ドラゴン、龍?が自分の近くまで飛んできました。洞察は得られませんでした。

・先週の10個のチャクラシステム・レベル3のセミナーから今日までの間に貴重な体験をしました。
仕事で行き詰まり、生きた心地がしない時がありました。今年の七福神灌頂で頂いた「目の前で起こっていることが一つの絵になっていなくても、左脳で理解しようとせず、人格レベルで整理せず、すべてがひとつである在りようの瞬間における自己の表現であるとし、自分の意識が何を表現したいと思っているのか現れるままにしてみる」というメッセージを胸に、すべてがひとつであるところから可能性にオープンになり、そこで浮かんできたことを行動に移すとスムーズに進みました。
自分の感情や条件付けを更に見直す切っ掛けとなる貴重な体験でした。
 
先週に感想として、「このところ、すべて(無も有も有無もないも含めて)から生命力を持ち生まれた自分の出処(根源)や原因が不明瞭な感じがして居心地の悪い落ち着かない感覚がありました。」と記載しました。

10個のチャクラシステム・レベル3の第1チャクラのお話を聴きたくなり、そこであったジナーナ、ヴィジナーナ、カルマプージャのお話と第3、4チャクラで体験したプーニャが気になっていましたが、昨日、今日のセミナーの体験で少しずつ繋がってきているように感じています。

・昨日のセミナーでは意識が飛び過ぎて体験を言葉にすることが出来ず、復習しても意識が保てませんでしたが、今日のセミナーでは前日との違いを感じたり、前日よりも意識を保て体験することができました。カオスを超えた在り様、カオス、ピュアな波動、アドヴァヤ、意識、応身を貫く流れを感じ、流れの中にある地上(人)の物質の世界や地上に至る世界を体験しているように感じました。
昨日6/4と今日のセミナーで、10個のチャクラシステムの第3チャクラと第4チャクラの学びを、異なる視点から仏にサポート頂いていたような気がしました。いつもサポートいただき感謝しています。ありがとうございます。

・30年ほど前にすべての人類に星の種を植えたお話、自分の人生を振り返ることが多いこの頃ですが無条件に納得しました。そのころ見た自身の将来像があり、その当時はありえないと思っていましたが、現在、遠からずそのようになっているなと思います。我家の近くにカリタスの修道院があり、帰宅時その脇を歩きながら、自分は将来修道院で祈る人生を過ごすと、突然空から降ってきたように直感的に思ったことを思い出していたのです。今、お二人により、自分自身だけでは得られないほど深く広い体験をさせていただいてます。日常生活を修道院とすれば、30年ほど前に見た日々を送っていると思います。地球に生まれたことの意味深さも、知っている自分がいることも教えていただきました。すべての存在に感謝を捧げたいと思います。

・これだけ、ダルマの世界を詳細に豊かに、実感をもって体験できる素晴らしい機会で、とても楽しいです。
話されていたように、「Halls of Time」の多次元の感覚もあったり、チャクラで行った「punya」に引き込まれることをもっと知りたいと思って探り、そこで得られる洞察がとても興味深いです。

【第12・13天のご感想】

・ようやく今、28天のセミナーに全てに追いつくことができました。
ただ、第12天の光音天では、瞑想で誘導されている3つのカヤを意識に込めたのですが全く何の体験もなく、心遊ばせてもみましたが、この世界を感じとる感覚のルートが私には全く無いのだと感じてしまいました。

13番目の少浄天では、少しイライラしてしまって集中力を欠きましたが、幾つかの疑問が浮上してきました。一つ目は、より少ない美しさ、より少ないピュアさという時、それは良し悪しではないのか、アドヴァヤの視点ではないのではないかという疑問です。
アドヴァヤの意識では全てがとてもピュアに感じるのに、敢えて天上の世界で一つで優劣び、そこでpunyaの流れを作るとはどういう意味があるのかと思ってしました。これまで幾つものセミナーで学んできたことが、28天では却って覆ってしまうのでしょうか。

より少ない自身と相手をありのままに見て、そこから進化するというのは、地上の世界の話ではなかったのか、なぜ28天でも繰り広げられれているのか、という疑問です。
28天を学んできて、何も体験が無い光音天を除く天上の世界が、まるで過去の地上の世界での日常の側面のひとつひとつを掘り起こしているように感じました。
天上のそれは、地上とどう違うのか、本当にわかりません。すみません・・・でも、それが正直なところです。

波動だけを感じるようにしているのですが、そこで感じとる純粋さや光や、より大きな何かというのが、28天では新しさとしてよくわからないのです。そしてマハヴァイロチャナの視点になると、28天が地上の世界そのもののように感じてしまうのです。これが私にとっての学びのチャレンジということなのでしょうか。

・最初の瞑想では、前回の瞑想で体験が得られなかった光音天を選び、サンボガカヤを使うことにし、補足的にニルマナカヤも用いました。
前回同様、初めは体験が得られなかったのですが、辛抱強く待ちながら、フォーカスする意識の境界を変化させたりするうちにようやく体験を得ることができました。

この世界全体が何かに満たされているという感覚から入ると、白いミルク色の空気の中にほんの少しの緑色が解けたような、まるで絵の具の筆を洗った水の中にいるような体験から始まりました。
白い線の密度や太さが多様に存在し、宇宙に存在する様々な楽譜のようであり、その違いによって私の脳が受け取る音の周波数の高さや密度が変化しました。そこから放たれる光は、人間が受診する音と連動しているようです。
光音天という名前はそこから来ているようにも思いました。
この世界から白い光の線や波が放たれることで、地球も含めて宇宙に多くの音楽が生まれているのかも知れません。
また、人間の脳は振動とか波の密度(圧力)のような形で受け取っていて、それが地上での日常体験や記憶と結びつくと、感情として表現することになるようでした。自分のサンボガカヤとニルマナカヤの間に繋がりができた気がします。

2回目の瞑想では、四天王とダルマカヤとサンボガカヤを選びました。
ブーメランのようなものが何もない空間から現れて、どこかに飛んでいきました。前回セミナーで体験した存在達の姿は今回は見えませんでした。
ブーメランと言っても、戻って来たわけではなく、飛んで何処かへ消えてしまったのです。ここでスヴァバビカカヤも導入しました。
最近、怒りっぽくなっている男性に何人も会いました。その理由を確認したかったのですが、そのことにどのように結びつくかはよくわかりませんでしたが、今思えば、眷属等が個々の人間の所に飛んでいってそこに時間をかけて働きかけを行っているのかも知れません。

【19天のご感想】

二十八天の19天までの瞑想をようやく終えることができました。
今回、なぜこのように時間がかかったと言いますと、少し進んでは怖くなり、また一つ瞑想をやっては次へは進めずに止まる、そして何日も瞑想したくなくなる、体がだるくなったり頭痛がする、というプロセスでした。
何故か気が進みませんでした。頭では早期にやり終える方が良さそうだということは分かっていても、28天の瞑想に向かおうとすると非常に心が重く感じられたり、瞑想に入る前から極度の眠気に襲われたりしていたのです。

実際にようやく終えてみて、理由が19天の5つの要素にあることが解りました。
3日目の瞑想に入ると同時に、私の背後、すぐ後ろで何かの存在が歩くという現象がありました。
実際には誰もいませんが、床が軋む音も何度か聞こえました。感覚としては、知っている存在であり、もしかしたら私にずっとついていた存在かも知れません。それが右往左往している、という感じの動きでした。

瞑想を進めるうちに、5つの要素の中身として山ほどのものが現れました。

懐疑的な疑いの鎖ではスピリチュアルな分野と日常との関係性に関するものや、ネガティブな状況を打開していく力が自分には無いのだという内なる声、ネガティブな日常体験や人生の流れはパートナーに力が無いのが原因だ、という内なる想いが浮上しました。

儀式や儀式にしがみつく鎖では、神棚に手を合わせることが出てきましたが、それよりも毎日のルーティーンワークの中に、「それをやらないと気が済まない」とか、「食事の後には必ずコーヒーを1杯飲まないと気が済まない」「3時のオヤツには甘いものを食べる」「夕食後にはテレビを観る」など、幾つも習慣化しているものがあることがわかりました。その殆どは、実はそうしない方が体に良かったり睡眠不足にならなくて済むことでした。

感覚に基づく願望の鎖については、お金の豊かさ無しでは生きていけないという執着に最初に気づきましたが、その底辺、更にその底辺は何かと探っていくと、父の影響がありました。父はもしかしたら豊かさへの執着が非常に強かったのかも知れません。父は非常に豊かな家庭に生まれて仕事もレールが既に敷かれた上を歩き、財政的豊かさを謳歌していましたが結果的には54歳で全て失うことになり、健康も害して68歳で亡くなりました。
ですが、もっと探っていくと、私の執着は父への執着であり、父が会社を倒産させたから家族がその後に大変な思いをせざるを得なかったというネガティブな思いよりも、寧ろ全ての財産を失った後の父の方が家にいてくれて家族との絆も深まったので一層好きになった、親友のようになったという想いがありました。父の良さがわかったのは父の晩年でした。
つまりは、父の人生であるにも拘わらず、私は父の人生に良し悪しをつけてそれを私自身の人生の流れとして再現したり、父に同情してきたようなのです。
父は私に執着していましたので、執着は双方向です。エネルギー的にこの鎖を切る必要があることは、少し前から気づいていました。19天の瞑想でどこまで手放せたかわかりませんが、気づくことはできました。
「幸せ」「豊かさ」「安心」について幻想を抱き、これらは自分がクリエイトするものではなく、ただ与えられることでしか得ることができないというのが、私の人生の幼少期に心の奥底で芽生えてしまいました。
そこを選んで生まれてきたとは言え、家庭環境に拠るものです。それも発見できました。
ここまで来て、天上の世界を進むには「もしかしたら両親や他の家族に対する執着は捨てなければならないのかも知れない」と思いました。
でも、正直なところ怖いです。自分の想いに対する執着も捨てるということでしょうから、それは最早、自分自身を捨てる(mamaから完全に離脱する)ということなのかな、と。足を踏み入れたことがない荒野に踏み出す勇気が必要かも知れません。

悪意の鎖では、最初から最後まで夫がターゲットでした。結婚してからずっと、ことあるごとにターゲットにしていました。私自身が何か上手くいかないことがあると夫のせいにし、夫に力がないから、ぼーっとしているから、エネルギーが低いからなどを、私の抱く幻想の「幸せ」「豊かさ」「安心」などが得られない理由の頂点として認識していたことが明らかになりました。
夫婦といえども相手を楽しませたり幸せにする「義務」は誰にもないのに、夫がその義務を果たしていないと決め込み、夫のありのままを「悪い状態」として心の中や言葉で攻撃していました。Shame on me!!

№064のミニ瞑想では、upeksaの意識に夫を入れました。
生々しい悪意は感じられないのですが、ミニ瞑想を終えてみたら、一層感情が感じられない状態になっていました。

3日目の瞑想で、父のことも夫のことも、既に強い感情は伴わずに観察しておりました。今日は、覚悟を決めて19天、3日目の瞑想に臨んだという感じでした。
絶対に目を逸らしておきたかったものに、こんなに時間をかけて漸く向き合えたという感じがします。
よく日本人は、「亡くなった家族が見守ってくれている」と言いますが、私の場合は「あなたは亡くなったお父様が見守ってくれている」と何人かのスピリチュアリストから言われたことがあります。
私はそれは意識しないようにしていましたが、エネルギーの鎖のようなものを父に対して私自身が付けていたのかも知れません。
それは夫についても同じでした。そしてアドヴァヤではなくドヴァヤの視点で見るターゲットにしていたのです。

ここから先の天上の世界でどのように展開していくか、怖いようなワクワクするような、不思議な気持ちです。私は自分で思っていた以上に臆病だということも、ここへ来て解りました。

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