胎蔵曼荼羅:悉曇の視点から見た曼荼羅の仏たちについての包括的な教え

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2021.2.22-23(月祝)から 「ヴァジュラサットヴァ(金剛薩汰)として生きる」の一環として、胎蔵曼荼羅(Maha Karuna Garbha Kośa)の仏たちを一尊ずつ体験し始めます。オンラインセミナーもしくは遠隔受講セミナーとして進めていきますが、メールでご質問いただける機会を設けます。合計で40日間セミナーになることが予想されます。

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説明

 まず私たち二人(ビル・エディソンとアナ原田)から、みなさまお一人おひとりに心から敬意を表します。今のこの瞬間は、みなさんがこれまで瞑想を行い、高次のエネルギーを保持してこられたからこそ実現した賜物です。みなさんが数々の意識の技能をマスターされたことで、グループとしての私たちは、この新たなエネルギーや形を生み出すチャンスをもたらすことが出来ました。そのエネルギーや表現である形は、私たち自身だけではなく、全ての人類にも大きな益をもたらすものです。この場を借りて全ての存在に深い感謝の意を表します。

千二百年前、私(ビル)はある夢を抱きました、、、

その夢とは、胎蔵マンダラと金剛界マンダラのすべての仏を、私たちの生きた身体に統合し、そして非二元のアドヴァヤに移行し、さらには悉曇の世界すら超えてピュアな波動の世界に至るというものでした。

2020年秋、天地寺の両界曼荼羅の開眼作法を行うことが出来ました。数多くのみなさまにそのスポンサーとなっていいただいたり、二つのマンダラセミナーの参加者として加わっていただきました。そこで膨大なエネルギーが保持されたことから、私たち二人は、これらの仏をみなさまにお教えするという誓いを立てることが出来ました。そのパワーは、そこで生まれた私たちの真の発言(表白)がもたらしたものでした。

まだこの歩みは続きますが、グループとしての私たちを、ここまで導いてくれたステップが幾つかあります。振り返ってみましょう。

ステップ1:五部心観の141の仏を通じてもたらされた四つのレベルを体験し始める

ステップ2:五部心観の最終段階で紹介された役割とは何かを探る、それは人生を金剛薩埵(ヴァジュラサットヴァ)の視点から生きること、そして仏の十力を身につけ始めること

ステップ3:二つの曼荼羅のスペースをオープンにする

さあ、いよいよこの夢をスタートさせるエネルギーを本格的にオープンにする時が来ました!

最近、「地球の波動:クロコアイト」のセミナーを行いましたが、そのセミナーで、大いなる存在達から、クロコアイトの石のセミナーでオープンにしたスペースが、それまで私たちがグループとして可能だと思っていたレベルを遥かに超えたところに至っていることや、さらなる前進のチャンスがあることを見せてもらいました。

さらにこのスペースは、私(ビル)に、チャクラというものが、ダルマという法の車輪を回す際に、どのように関与しているのか、幾つもの洞察をもたらしてくれました。特にクロコアイトの最後の瞑想では、3つのチャクラをオープンにし、それをクリアにするステップを行いましたが、私たちがグループとしてそれすらも超えて進むことができれば、このスペースが、10個のチャクラからなるエネルギーシステムとなることも見せてもらえました。

このシステムは、実は13世紀鎌倉時代の高僧である叡尊僧正の時代に使われたプロセスの一部でもあります。このエネルギーシステムは、今回の石のセミナーで一旦安定すると、誰でもがアクセスできるものとなります。これは、これから始まる胎蔵マンダラセミナーを成功して体験するための、最初のステップであることがわかりました。

そこで最初の一歩としてまず、胎蔵セミナーの紹介とスペシャルセッションを行います。ここでは、胎蔵マンダラセミナーの説明と、そのマンダラの仏のお一人である葉衣観音(ようえかんのん)と呼ばれる仏についての瞑想を行います。

梵名はParnśabarīです。

この熾烈な仏は、コロナのような大きな病を制御しておられることから、このパンデミックを和らげる助けをお願いします。

そして、その翌日には、胎蔵マンダラ本セミナーを開幕します。
まずここでは、先述の10個のチャクラの波動を学ぶスペシャルトレイニングを行います。そして次の日には、胎蔵マンダラを学ぶことを仏から許可をいただく儀式を行います。胎蔵マンダラセミナーの仏の瞑想は、その翌日に中台八葉(中心の八仏)からスタートします。これ以降の日程は、追ってお知らせいたしますが、極めて広域にわたるプロセスになると思われます。

エキサイティングな年になりそうです。
ちなみに、今年の終わりもしくは来年には、金剛界マンダラの最後の三会の瞑想を行う予定です。

五部心観では金剛界マンダラに向かって左の六会を行いましたが、残りの最後の三会を行うと、金剛界全てを網羅することになります。この最後の三会は、弘法大師空海の師僧であった恵果阿闍梨によって編成され加えられたもので、五部心観とは心もち異なるエネルギーを持っています。

元々みなさまには、胎蔵マンダラセミナーへの導入として、何世紀も前に作られた古いお次第や資料をもとに、金剛界の37尊をオープンにしそれを自己に統合するという特別なプロセスをご紹介する予定でしたが、今回の10個のチャクラが胎蔵のエネルギーをクリアーにしてくれることが明らかになり、今回の展開となりました。

一方で37尊が、金剛界のエネルギーをクリアしてくれることも明白になりました。そして、この両方を終えたあかつきに、初めて両界曼荼羅の非二元であるアドヴァヤに移行することができることも、ピュアな波動が明かしてくれました。

今、1200年に一度のチャンスが訪れようとしています。それは、何とこれからの1200年間に使われるテンプレートの一部となるものを創造するチャンスです。

このチャンスを与えられたことに、感謝の気持ちでいっぱいです。これまで様々なことを教えてくださったティーチャーの方々、仏、菩薩、人々に対して敬虔な思いを抱くとともに感謝をいたします。
大切なことは、恐れを抱かず、弛まずしっかりと歩みを進めていくことです。さあ、ご一緒に歩み続けていきませんか。

<セミナーのご感想>

【10個のチャクラシステム】


1日目にセミナーで10のチャクラに関する瞑想をした際、クロコアイトのセミナーで同じ瞑想をしていた時とは異なる体験が得られました。どのチャクラも、よりも探ることができました。
6番目のチャクラの瞑想では、サラスバティのエネルギーと共に仏や存在ごとにたくさんのスペースが創造され存在するような感覚がありましたが、今回は下(地面?、足元?)から水が染みだし湧いてきて水が広がっていく体験をしました。湧いてきた水により満たされていき、仏や存在のたくさんのスペースは水の揺れが加わり、新たな美しさを体験することができました。創造される美の多様性を体験したような気がしました。
アナさんにメールでアドバイスをお願いしたことについても、セミナーのお話の中でアドバイスを頂き感謝しております。過去を手放そうとしているのに、過去に囚われた自分に気付かずに不安になっていたということを認識することができました。アナさんのお話を聞いていて、ハッとしてしまいました。気付きの機会を頂き、ありがとうございました。

【2日目】


「アヴィラフンカン」とご真言を唱えて頂いているところで意識が飛んでしまいました。今後、録音されたものを使って再度体験したいと思います。

【遍智院】

【014 Vajrāmoghasamayasattva 大安楽不空真実菩薩】

・大安楽不空真実菩薩の瞑想は、とても印象的な体験でした。誘導の始まりからエネルギーの無限の広がりや安定感を感じました。他の仏の瞑想でもエネルギー設定の誘導部分を体験している時には、身体の中に入ってくるエネルギーを知覚で捉え、その表現を体験している自分を感じてはいましたが、大安楽不空真実菩薩の瞑想では自分の身体が透明のガラスの器(導管)で、その中に入ってくる波動の響きによりガラスを通して見えてくる景色が変化していくさまを体験しました。(パドマで蓮の華、チャンドラカヤで月輪・・・etc)普段、現実だと思っているのは…こういうものなのかもしれないとリアルに感じ、自分という価値観(認識)を変えていく必要があるように感じました。

 仏様のピュアなエネルギーを自分の中に取り込んだ時には、両方の掌の上で複数のスペースが重なり合いながらオープンになっていくような体験や、37尊の仏たちで構成されている構造体(正八面体?正六面体?)が自分の身体の中に存在しているような体験がありました。また、瞑想後にアナさんが左側の6手の誘導内容(短命を払う…ect)についてお話してくださいましたが、記憶にありませんでした。ですが、楽しみも不安も超越した守護のような、大安楽不空真実菩薩さまの慈愛のようなものを体験させて頂いた感じがしました。今回のセミナーでこのような体験ができたことに感謝します。ありがとうございました。

・ラトナとしてエネルギーを持ち帰る、37の仏を生み出すというエネルギーを持ち帰ることが何をどう探ったら良いか最初はわかりませんでしたが、瞑想が終わってもう一度目を閉じたら、金剛の幾筋もの柱が目の前にありました。その映像が印象的だったので、悉曇カードを引いたところ、瞑想を終えての私の波動は DA でした。それを見た瞬間、私を産んだ母への無条件の感謝の気持ちが沸いてきました。有難うございました。

【観音院】

【観音院全般】

・観音院の仏は、お名前を聞いたことのある仏が多かったので、少しリラックスして瞑想できた気はしますが、意識が保てるものと、全く意識が保てないものとありました。瞑想によってハッキリと分かれるのも面白いと思いました。観音院では、慈悲慈愛に関する概念ではない、純粋なエネルギーを人の身体で感じるという貴重な機会を得たことに感謝します。新たな可能性を見出した気がします。大明白身菩薩と馬頭観音菩薩の瞑想では、慈悲慈愛の更なる深みを垣間見たように思います。また、ラトナに関する意識や視点の可能性を感じる機会となりました。現実的に迷いのあったことについても、全く異なる視点からのあり様を見せて頂き、気持ちの整理ができました。ありがとうございました。

【017 Āryāvalokiteśvara Bodhisattva 聖観自在菩薩】

・聖観自在菩薩の御真言によってもたらされたスペースでは、一瞬にして薄いピンクの蓮華と多くの真っ白い蓮華が次々と開き、満ちていきました。どこまでもピュアで優しく明るい豊かさが溢れかえっていました。次の蓮華軍荼利では、深い緑色の植物(弦)のような存在が蓮華のあらゆる隙間に伸びて、覆いました。無数の蓮華が緑の弦によって全てピュアな蓮華全てが繋がっている安定感が加わりました。

【018 Padmakulodbhava Bodhisattva 蓮華部発生菩薩】

・御真言の直後、自己の誕生を意識した時に一つの炎が目の前にありました。それを見つめたところ、次に自分の意識が広大に拡がる可能性をもった曼荼羅のような模様の中央を見ていることがわかりました。それは、入口(ドア)だと感じられ、入口そのものが自身のようで、その周りは広大に広がった曼荼羅です。完成された無限のシステムの入口に自らが置かれているようでした。私たちが存在している宇宙の中心の入口を創造していらっしゃる仏のエネルギーが感じられました。

【023 Hayagrīva Bodhisattva 馬頭観音菩薩】

 持ち帰る体験が無いような、自分自身の感覚が開いたままのような感じで瞑想を終えました。無いかが変わったようにも感じるものの、特にメモする体験が特にないように思って、悉曇カードを使って瞑想直後の自己の波動を尋ねました。すると、答えは GHA でした。馬頭観音菩薩と一つになり、更に真証の自己とも一体となっているのだなと感じました。

【024 Mahāpratisarā Bodhisattva 大随求菩薩】

 瞑想直後に全てのレベルでの自分の波動を悉曇カードに尋ねたところ、回答は THA でした。非常に大きく層の厚いエネルギーを感じました。

【043, 044, 045 Padmacetī 蓮華部使者】

 この瞑想を行ったのは20日の午前11時過ぎでした。午後に皆さんと同時に瞑想に入るために12時過ぎからお昼ご飯を食べましたが、食事の後片付けに手間取っていた時のことです。13時からの瞑想に備えて遅くとも15分前には場と呼吸を整えたいと思っていました。12時45分が目前に近づいた時、大体食器を片付け終えた状態でしたが、未だ2種類の食器を拭く作業が残っていました。優先順位では12時45分には瞑想の準備に入ることが一番なのに、何故かその2種類の食器だけはどうしても拭いて、いつもの場所に仕舞いたいのです。「仕舞ってしまわなければならない」と思ったのです。理由は、祖母が大切にしていた高価な食器だったからです。それは無意識のうちに、いつも行っていたことでした。そのとき初めて気づきました。「祖母の想い」と「高価」、この2つがこの場でのサマヤの実現の障害になっていたことを、です。執着はこんな形で日常の無意識的な行動や癖の中に存在していたのですね。余りにも当たり前になっていて、障害に気づきませんでした。しかもその瞬間を思い起こすと、左脳が「〇〇をしなければならない」とコントロールのための指示を出していたことに気づいたのです。
瞑想の中で、「蓮華部使者はどのような働きをしてくださるのか?」と問いかけ、瞑想中には回答はありませんでしたが、この気づきのように蓮華部使者は気づかせて下さる、このような働きをして下さっているということだと思います。とても感謝しました。

【025 Stūpamahāśrī Bodhisattva 卒塔婆大吉祥菩薩】

 瞑想に入ってすぐに全く意識を失ってしまいましたが、瞑想直後に悉曇カードで全てのレベルに共通する自分の波動を尋ねると、答えは HA でした。もう一度、次回はしっかり体験を持ち帰るべく瞑想しようと思います。

【026 Yaśodharā Bodhisattva 耶輪陀羅菩薩、046 Dūtī 蓮華部使者】

 とにかく物凄くパワフルで大きなエネルギーでしたので、体が熱くなり汗がダラダラ出ました。先日教えて頂いたようにその場で地面を歩くことはできませんでしたが、足の裏から流す意識を保ち、神ノ口を開け放ってどうにか対処しました。Dutiのご紹介がある前、耶輪陀羅菩薩のお姿を拝見したいと願った時、高い場所に白い塔が現れ、塔の頂点から白っぽい炎と煙が上がりました。
蓮華部使者Dutiにこの仏との橋をかけて頂いた直後、視覚的な素晴らしい体験がありました。でこぼこした地平線のような場所から、それはそれは明るい満月を更に明るくしたような光の球体が、日の出のように姿を現してきたのです。実は、耶輪陀羅菩薩の瞑想に入った直後の誘導にある、「悉曇王が世界をどのように作られたかを…」の箇所で、実際にどのように仏や人間を作られたのか、その瞬間を明確に見てみたいと強く思ったのです。この瞑想体験は、その問いへの答えだと思います。瞑想直後に悉曇カードで、耶輪陀羅菩薩とDutiを体験した後の私の2つの波動を尋ねました。まず KHA. 次に JA.虚空の体験と、そこからの個のエネルギーの誕生ですね。そのものだと思います。

【027 Cintāmaṇicakra Bodhisattva 如意輪菩薩、047 Ratnapūjā 宝供養(Hōkuyō)】

 とても深く高いエネルギーだったと思いますが、何をしていたのか全く記憶がありませんでした。瞑想直後の私の「意識の波動」を尋ねると、カードは PHA でした。体が緩みきっている感じはありました。睡眠不足も瞑想で解消された気がします。
この後、犬の散歩に出かけたのですが、その際、もしかしたら仏の恩寵かも知れないと思えることがありました。先日の馬頭観音様にもお願いしてありましたが、ずっとお腹の具合が悪くて毎日のように通院していた下痢続きの愛犬が約1か月振りに非常に状態の良い排便をしてくれたのです。嬉しくて出たものの写真も撮ってしまったくらいです。それに私の愛犬はこのところ殆ど食事を摂らず痩せ細っていたのですが、昨夜は夕食を完食し、何と今朝も完食。朝のお散歩も張り切って出かけてくれました。愛犬の生命力が再び輝きだしたように感じます。

【028 Mahāśrīmahāvidyā Bodhisattva 大吉祥大明菩薩】

 6月23日の19時からこの瞑想に皆様と一緒に入りましたが、すぐに意識が保てなくなり、瞑想が終了すると物凄く眠くなったのでその後の瞑想を継続するよりも睡眠を優先しました。20時から約11時間も深い眠りにつきました。翌日(24日)に再度瞑想しました。体験は今回は浅かったような気がしますが、途中で三角が何層にも重なったようなものを体験し、その後で色はグレイの長細いものとやはりグレイと黒が渦を巻いたようなものが視覚に現れました。瞑想後に仏のお姿をよく見ると蓮の花を持っておられたので、多分長細いものは蓮の茎かも知れないと思います。渦を巻いたようなものが何だったのかよくわかりませんが、もしかしたらもう片方の手の印を別の形で体験したのか、どうなのでしょうか。瞑想の終盤に、意識のスペースをより体験したいという意図が働き、その瞬間に SA という音が聞こえました。悉曇カードで瞑想直後の波動を尋ねたところ、Sの下に点のある KSA でした。何が終わったのかもう一度カードで尋ねましたら、GA が終わったとのことです。 今にいる、静止した状態なのだなと再確認できたように思います。

【029 Śrīmahāvidyā Bodhisattva 大吉祥明菩薩】

 朝から主人の事が頭に浮かぶのを振り切れないまま瞑想に入りました。そのような状態であったにも拘わらず、瞑想では体験がもたらされました。ピュアな波動、開花する前の蕾の蓮を意識すると、何故か合掌する手が現れました。それを見つめているとそれまでチラチラと現れては消えていた思考の数々が消えて、合掌する手が蓮の蕾のように感じられました。それと同時に足の裏が大変温かく感じられ、接地感が大きくなりました。
 その時、これがメッセージかなと感じました。つまり、「日常の中でドラマに入ったと感じた瞬間に瞑想できるタイミングでなくとも、その場で少しでも目を閉じて合掌し足元を感じなさい」というメッセージです。そうすれば、瞬時にドラマから解放される(ドラマを消す)ことができるというメッセージです。

【049 Padmakulaceṭī 大吉祥明菩薩の蓮華部使者】

 光の環が現れ、その上部から炎が上がっていました。よく見ると色が黄色っぽかったり、ヴァイオレットがかっていたり。それを見つめていると、次第に光の環は渦巻に変わり、渦巻の炎になりました。足の裏の熱の接地感がますます強くなり、瞑想での集中力が増した気がします。瞑想を終えると、肩の重みが消え、頭の中がすっきりしました。

【030 Śivāvahavidyā Bodhisattva 寂留明菩薩】

 誘導瞑想が始まった直後、まだこの仏がご紹介されていない時に、何故か椅子の上で胡坐のように脚を組みたくなり、左ひざが上がっている状態でとても落ち着きましたので、そのまま瞑想に入っていきました。すると直ぐに、仏のお姿を拝見しました。青白いく滑らかな肌色を持たれ、細身ですっきりと凛とした感じの表情をされていました。衣は付けておられない上半身のみの視覚でした。不思議なことに一瞬、自分の姿のようにも感じました。瞑想の誘導が進むにつれ、この仏が実は怒りを表されていると知り、最初に拝見してお姿とは異なるのか?と質問がよぎりましたが、同じである、同一であるという内なるメッセージを受け取った気がします。
怒りで他者を変容させる場面を想像するという箇所では、過日、私が犬を連れていく隣の公園で自分が行った行為を思い出しました。集まった犬たちに向かって、遠巻きに石を投げ始めた幼児達がいました。見ていると、犬に向かって石を投げる行為自体に楽しさを見出し始めたのがわかりました。実際には投げた石は犬たちには届きませんが、少しずつ間合いを詰めてきていました。今、目の前で行われているその行為が、その子達が成長するにつれ小学校に上がる頃には、もしかしたら誰かを無邪気に攻撃する喜びの原点になるであろうという映像を伴うメッセージを受け取った気がしました。それはこの子達自身のためにならないということ、世界の秩序や平和の一角が損なわれてしまうと感じました。それと同時にこの幼児の年頃には理屈ではなく、指導は筋肉(身体)に影響を与えるのが効果的という想いもよぎりました。
この一連の想いはつらつら考えたわけではなく、一瞬のうちに起きていました。次の瞬間、私は自分では軽く大きなお声で「石を投げるんじゃない!」と言ったつもりでしたが、その子供たちが飛びあがるほど驚いたのを見て、果たして自分が出した声なのかと自問自答しました。ですが、同時にこれで良かった、もうこの子たちは大丈夫という確信が生まれました。
その時、一緒にいた複数の飼主たち(ワンちゃん仲間たち)は、普段大きな声を出さない私が初めて、しかも子供たちに向かって怒りを現したということを語っていましたが、私自身は殆ど感情が動いていないという自覚がありました。
私は怒りの感情に囚われると手が震えたり、呼吸が乱れたり、首の周りや手が冷たく感じるのですが、それはありませんでした。
しかしその時、私は怒ってはいない、彼らをよくみて将来の軌道修正をしたつもりだとは弁明しませんでした。
「怒りはたまには外に吐き出した方がいいよね」と、トンチンカンなコメントを口にした男性もいました。その時初めて、ああ、今私がしたことの真意を例え説明したとしても理解できる人はここにはいない、と悟ったのです。それから、さまざまな事で自分とこれまで共に時間を過ごしてきた友人たちと意識にはっきりと差が生じたと感じました。
彼らのことは理解できますが、彼らには理解できないというジレンマが生まれましたが、今はそれでも良い、この意識の成長の道を私は歩むのだと強く感じます。共存は可能です。
今回の瞑想では、この出来事を思い出してからずっと、出来事をサポートした存在がおられたこと、そしてその存在はもしかしたらこの仏だったのかも知れないという、感謝とも驚きともとれる感覚でした。寂留明菩薩ともともと深いご縁があるのかなぁという感じです。

【031 Parṇaśabarī Bodhisattva 被葉衣菩薩】

 誘導はちゃんと聞いていたのですが、左脳が殆ど働かず意味がわからず、意識が戻っては飛び、戻っては飛ぶということを繰り返していました。
 瞑想後の自分の波動を悉曇カードで質問したところ 上に~が付いたNA(智)でした。そういえば、意識の様々な層や角度を変えて観察したり遠目に観たり、近視眼的に近づいて観察しようとするという体験をしていたように思います。

 この瞑想について、2回目を行いました。何度か5枚の花弁をもつ花が現れて、薄い涼やかな水色をしていました。それが何を意味するかマインドが翻訳できませんでしたが、感覚としては美しさとか、ちょうどよいバランス、そこに在る、というような感じがしました。先日の1回目の瞑想ではRAGAまでは体験できたようでしたが、今回はRAJAを体験したかも知れません。

【032 Śvetabhagavatī Bodhisattva 白身観自在菩薩】

 全ての色の意味を理解するという誘導瞑想の部分で、私が行うハンドメイド・クラフトの作業中の感覚が蘇りました。私が色彩を選んだり組み合わせたりする時、選ぶ色、混ぜる色とともにすっきりした感覚や喜びや拡大感が得られることがあり、あの作業も意識の成長の一部になっているのかも知れないと頭の片隅で思いました。RUと何度か唱えたら体が熱くなり、頭の中に留まるエネルギーを感じました。
仏と一体でありながらも、仏になりきれていないという、言葉にできない感覚があり、2つ目のご真言によって、この感覚が進行形でありそれもまた尊いのだと教えて頂いたような気がしました。

【033 Bhogavatī Bodhisattva 豊財菩薩】

 白い蓮の花はただの白ではなく、それぞれの花弁の縁が金色に光、一つ一つの花弁の先端には雨の雫が一粒乗ったように、清らかに光っていました。豊財菩薩の冠が見えた気がしました。それと同時に、何故かアクティブさも感じました。瞑想が終わってからもその蓮華の様子を思い出すと、自分がとても尊いと思えます。

【050 Dūtī 蓮華部使者(033豊財菩薩の使者)】

 頭頂に強いエネルギーを感じ、まず上に引き上げられる感覚。続いて、下を向いた白い蓮の花が感じられ、アムリタも頭頂から入ってきているように感じました。

【034 Amoghapāśa Bodhisattva 不空羂索観音菩薩】

 瞑想の初めから深く入りすぎ、睡眠してしまったかも知れず、途中から改めてやり直しました。ある図形が現れ、それが何を意味するのかわかりませんでした。

【035 Dakaśrī Bodhisattva 水吉祥菩薩】

 瞑想中の記憶は殆どありませんが、地上に意識を戻した時は左脳が働きませんでした。まったりと、ずっと無限のスペースに自分がいるようでした。瞑想は終わっているのに無限のスペースが自身のようで、目に見えるものの意味がわからない感じがしました。

【036 Lakṣmīmahāvidyā Bodhisattva 大吉祥変菩薩】

 宝石のようなものが現れました。まず最初にぽっかりと空いた黒い空洞を持つ穴が現れ、そこに入ったところ、その先にもまた穴がありました。その真ん中に添付ファイルのような雫を上向きにしたような白い光る物体がありました。白く、唯一無二の尊い存在としてそこに在りました。それがこの菩薩のお姿だったのだと思います。そして、とても深いところに存在している意識だと感じました。

【053 Dūtī 蓮華部使者(036大吉祥変菩薩の使者)】

 蓮華部使者についての誘導が始まると、即座に数珠のようなものが現れました。主に紫色の珠で、幾つか少しの薄いピンクの珠と1~2個の渋い緑色の珠が混ざっていました。赤と黄色がかった茶の珠も混ざっていたかもしれません。それを眺めておりますと、次に光る物体(まるで飛ぶ鳥の翼を思わせる形)が現れました。小さいのですが非常に強い光を放つ鳥のようでこのようにしてこの使者は時空を超えて伝えていらっしゃるのだと思いました。

【037 Pāṇḍaravāsinī Bodhisattva 白処尊菩薩】

 この瞑想の前に今朝は何故か白いジーンズに白い薄手のジャケットを着てしまい、真夏ではないのに白すぎるかしらと思っていましたが、瞑想を始めた時にその理由がわかった気がしました。
体験としては、仏のお名前の一節一節をビルさんが口にされる毎に、その音(波動)がそれぞれ体の異なる部位に響いているのがわかりました。今まではこれほど感じなかったかもしれません。それを終えると、意識はしっかりあるのですが体験が一旦なくなってしなったような感じで、「探る」という意識そのものが停止してしまったようです。その後、記憶が蘇りました。過去に行った誘導瞑想で、不思議な冠を被り赤紫の細見のローブを着た高次の女性(多分ハイヤーセルフ)が、白いお城の中の広間で白い衣を纏った存在に仕えているような様子をはっきり見ましたが、今回はこの白い衣を纏った存在が白処尊菩薩のような気がしてなりませんでした。そして今日の瞑想で、菩薩と一体となったのだなと思うと奇跡のような思いです。瞑想から目覚めた時、自分が履いている白いジーンズ、自室の白い棚、白い紙、白い壁、白い光が一斉に目に飛び込んできました。ピュアな彼岸にいると感じます。

【金剛手院】

 胎蔵曼荼羅を受講しているグループの方々のみならず、多くのキャッスル・グループをというものをここ何日かの間に何度か意識しました。すると、重くなって実際に痛みも感じていたハートの辺りが急に軽くなり、痛みを感じなくなるという体験を何度もしました。その都度、意識も引き上げられました。グループに助けられていると感じると同時に、このグループの一員になっている自分を誇らしくも感じます。とても助けられました。

【054 忿怒月黶菩薩: Krodhacandratilaka】

 この瞑想では意識が遠のいてしまいましたが、とても気持ちがよかったです。  思考が止まり、エネルギーが引き上げられ続けたようです。

【ミニ瞑想:忿怒月黶菩薩】

 自分自身が外から影響されざるを得ない心もとない存在だという人格の妄想を  打ち砕きました。 孤独、悲しみ、苦しみ、寂しさなどが、外からもたらされてしまうものだと  いう幻想を抱いていたことに気づき、全て自分の責任において生じるものだ  という視点に、改めて立つことができました。濃い霧に覆われたようになっていた  ところ、その霧が取り除かれてきました。

【055 金剛拳菩薩: Vajramuṣṭi】

 キラキラと輝きを内側から放ち続ける仏でした。金剛のカルマヴァジュラが素早く振るわれた有様も視覚で体験しました。地上では所詮一人であり分離していても仕方がないという妄想を打ち砕きました。質量のあるもの(愛犬の生きている時の姿)が目の前に映し出され、執着とその原因である「私は支えてくれる存在がいないと寂しい存在だ」という人格レベルの妄想を破壊しました。更に、淋しいという感情体そのものに執着して掴んで離さないでいる状態も発見しましたので、特定の感情を持ち続けることに執着している自我の側面を打ち砕きました。また、主人がもともと持ち続けてきた人格レベルの淋しさに共鳴し続けてきた自分に気づき、その淋しさとの共鳴は必要ないものだと気づいてそれも破壊しました。

【056 持金剛鋒菩薩: Vajrāgradhāri】

非常に意識が深く入り、遠のいてしまいました。体験を顕在意識に翻訳できていなかったので、どんな風に自分の意識が変化したかを知るために、瞑想直後に悉曇カードを引きました。すると、意識の波動は A でした。何が無い状態になったのかわかりませんが、明朝に再度瞑想してみようと思います。このところ、執着に縛られて過ごしていましたが、今日の瞑想でようやく目が覚めてきた ように思います。有難うございました。

【釈迦院】

【108 Subhūti 須菩提】

次のようなメッセージが、瞑想開始とともに内側から湧き上がってきました。

RAGA → RAJA → RATNA と移行していくのは、MA の進化拡大とともに行われ得る。

人が情熱を持つのは、そもそもが自己でないものを求めているから、満たされたいから。そして、二元の世界が創り出されたのは、全てを「知りたい」、ワンネス(宇宙)自体がワンネスの構造を知りたい(求める)という意思があったから。個々の存在のRAの進化はワンネスに通じ、ワンネス自体もまた常に進化し変化し続けている。

以上が体験として得たメッセージでした。

【109 Maudgalyāyana 大目犍連】

途中で回線が途切れて、再び繋がったので少しの間だけビルさんの誘導を聴くことができませんでしたが、それでも、不思議な光のエネルギーを感じ、以下のような気づきがありました。「全てのもの、つまりは有機物も無機物も星々も、形のない仏達のエネルギーも含めて縦横無尽に全てが繋がっている。

全てが時間も場所も飛び越えて関連しあっている。

思考のパワーは、その全体からもたらされているようだ。

形の無い世界から形のない世界へとパワーはもたらされるが、形の有る世界からそれが無い世界への何らかのフィードバックもあるようだ。」というメッセージでした。
自分のマナスチャクラで感じているようでもあり、自分が考えて
創り出しているようなメッセージでもあり、両方同じなのかも知れません。

【110 Kauṣṭhila 抱絺羅】

形あるものの悟りの性質とは、そもそも何らかの意図、意思があって形として創造されているが、それは永遠ではなく、朽ちていくいくということ。形は変化し、別のものへとそのエネルギーは変容しする。最早、形はないものへ。形となる原因となったものが無くなる。

【111 Ānanda 阿難】

今日、犬を散歩させている時に、前から近寄ってきた老人が、私に次のように語りかけられたのを思い出しました。
「この犬は人を笑顔にさせるね、そのために、そういう顔形をしているんだね」
それは常日頃私が思っていたことと同じで、特にこの固有の犬の徳と言えると思っていたのと同じことでした。
その老人の言葉を聞いた瞬間、この人が仏であって、人の形をして私に語り掛けているのかなのかなと感じたことを思い出したのです。
メッセージは、形のない高次の存在からも出会う人や他の生き物、目にする植物からも、常にもたらされているのだと、この瞑想で気づきました。

【112 Kātyāyana 迦旃延】

この仏に対して投げかけた私の問いは、PA(究極の真理)について判りやすく翻訳して頂きたいという内容でした。
それに対するご回答として、1つの透明なコップに入った水が示されました。
水は気体にもなり、無重力ではコップから飛び出して散る水滴となり、また、コップの大きさも実は様々にあって、中に入っている水の量は異なる。どのような形状であっても純粋な水は純粋な水である。
透明の水の中に入ることもでき、一体となることもできるが、水が入ったコップの範囲を超えた視点を持つと、中身がより鮮明にわかる。
目に見えるものも見えないと感じるものも、あらゆる可能性として既に存在している。というような内容でした。
更に、PAを深く学ぶには多くの視点をもって探るようにとのアドヴァイスもいただきました。

【113 Upāli 優波離】

この仏から私への個別の教えは、次のとおりです。

 1. 他者は自分であり、自分もまた他者である。
 2. 根本的な慈悲慈愛は、それを抱くための条件はない。
    無条件の慈悲慈愛が根本である。
 3. 他者に対して感じる慈愛は、自分にも向けると良い。
    また、自分自身に対する慈愛を感じたら、それを他者も
    感じられるようにとすると良い。

【114 Tamālapattrapratyekabuddha 多摩羅香辟支仏】

瞑想中、かなり咳き込んでしまいました。
十二因縁はまだ受講していませんが、受けたいなと思いました。
四諦、八正道もっと繰り返し瞑想する必要があると感じました。
余計なことに気が散るのはピュアさが足りていないから。あるいは目覚めへの一点集中の意識から瞬間的に意識が逸れてしまう癖は、四諦、八正道、十二因縁の学びを深めることで変化するのだろうと思います。

【115 Candanagandhapratyekabuddha 栴檀香辟支仏】

慈悲慈愛に基づいて、瞑想で得た体験や技能を他者にシェアしていくことが大事だと感じました。
ピュアな在り様を確固としたものとすることが大切であり、自ら学び、他者もその道を進めるようにと手助けしたいと思いました。

【116 Nemipratyekabuddha 輪輻辟支仏】

あちらこちらに気が散らないようになるには、瞑想を続けることが肝要と思います。

【117 Ratnanemipratyekabuddha 宝輻辟支仏】

全ての道はひとつ。人の人生は人の数だけ存在するけれど、自分の人生の流れにも他者の人生の流れにも良し悪しはない。目覚めの道としてどのような手段や道のりを歩もうとも、それぞれが尊い選択であり、尊いダルマの道なのだなと思います。

【118 Tathāgatorṇā (Tathāgata urṇā) 如来毫相菩薩】

眠りのように意識が深く入ってしまい、誘導の意味をよく覚えていませんが、瞑想の最後の方で、自分と対象に対して何をするかというような内容だったかと思いますが、意識の中心にぼんやりと白い蓮の花が現れ、その中心に一本の棒のようなもの(とっこしょ?のようなもの)が立ちました。自分と自分以外の対象の2つの質問だったように思いますが、現れたのはその一つの映像、存在感のある映像だけでした。
それはどんな意味があるのかわかりませんでしたが、もしも仏教的な意味合いがありそうでしたらアドヴァイスをお願いできないでしょうか。

【119 Tathāgatakaruṇā 如来悲菩薩】

この瞑想でカルナーの波動を送った相手は夫でした。ピュアな存在としての夫を感じました。子供のような生き生きとした感じと、非常に静かなエネルギーも返ってきました。そして、未来の自分に波動を送りました。それは私がこの地上を離れていく時です。静かな喜びの感覚が返ってきました。

【120 Tathāgatamreḍitā 如来愍菩薩】

後期高齢者である母に、この仏の慈愛を送りました。
どのような行動でそれを実際に為すのかといえば、私が母の家へ出向き、ご飯を作って共に食すということです。その行動を、この仏の慈愛とともに行うことでも良いのだなと思いました。

今、胎蔵曼荼羅の自分の体験(№120 Tathāgatamreḍitā 如来愍菩薩 (Nyoraimin-bosatsu)を読み返していていました。 そこには、先日の、ターニングポイントにあった友人の名前が記録されていました。 この瞑想で自然に浮かんできた人でしたが、セミナーが開催された時期から推測すると、セミナー時点では未だ彼女の人生には急転直下の出来事は起きていなかったと思われます。 この瞑想のセミナー中には、何をどのように観察して相手に何を伝えたかという詳細はメモに記録されていませんでしたが、仏の波動を感じながら相手を意識に込めていたことは間違いありません。 先日、この友人に起こった出来事と私がとった小さな行動について、ビルさんとアナさんにメールされていただきました。 彼女からのその後のフィードバックとか、彼女に対する私のアプローチの仕方、自分のその時の気持ちを思い出してみると、どうもこの仏の波動で満たされていたように思います。 彼女と彼女の夫は住み慣れた都会を離れて、田舎に移住するという方向転換をすることになったわけですが、それもいつかやってみたいと思っていたことの一つだったようです。 しかし、失ったものの大きさには未だ打ちのめされていたようですし、新しい人生の選択は「急遽、それを選択せざるを得なくなった」ということのようでした。ちょうとその時に、彼女とコミュニケーションをとるタイミングが私に訪れたという流れでした。私達は何年か会っていなかったのです。 人によって、起きる物事の変化がラディカルと感じられるかどうかの基準はまちまちですが、多分彼女にとってのラディカルな変化を人生で選択されたのだなと思いました。 そして、私が過去に自分に対して行った次の方法を彼女に伝えました。 やっと訪れた新しい人生の流れの良さや喜びをしっかりと感じとり、田舎に移住できることと、その原因になったと思っている事柄(大切なものを失ったこと)の両方に、「同じ量」の感謝を送り、その両方の出来事に関わった人たちとエネルギーとしてのサポーター、それを可能にしてくれた宇宙の計らいに対して深い感謝のエネルギーを捧げると良いこと、そして、両方のイベント(直接の原因となったショッキングな出来事とその後の新しい人生の選択)をひとつの光に変えて宇宙の彼方に捧げて完全に手放すと良いことを、もっと簡単にお伝えしました。意識のシフトのチャンスが来たね、と。 そして、「この方法はパワフルだけど、気持ちに余裕があって、やってみたいと思うのなら、そのタイミングでやってみると良いと思う」と付け加えることも忘れませんでした。 そして彼女に詩を贈り・・・ しかもその詩は、その日、たまたま「過去の想い出」として以前にFacebookで投稿したものがパソコンの画面にピコンと現れたもので、昔投稿したこともすっかり忘れていました。 ですから、「あら、そういえば以前私はこのような詩を書いたんだなあ」と思って読み返していたのです。ですから、タイミングがぴったりと合って目の前に現れたものの一つでした。 彼女とのこの一連のやりとりは、私という自我が行ったというよりは、広がった感覚の中でメッセージがどこかからやってきて、それを受け取りながら行っていたような感じです。 自分のやるべきことと、その方法や範囲が明確に解っていました。 彼女からは「何だか詩を読んだら自然に涙が溢れて、貴女からの深い愛を感じた。言葉にできない感覚。詩も含めてみんなにシェアしたい。そして、貴女は今まで幾度となく自作のイラストをFacebookに投稿しているから、イラスト付きの詩集をKindleで出版するといいと思う」という内容の返信を送ってくれました。 そんなに感謝されるとは全く思っていなかったので意外でしたが、私の方が逆に慈愛を感じさせてもらえたのです。 なにか、じわ~っとハートの奥に広がる大切なものを感じました。 何も期待せずに、まっさらな意識で相手に向き合う時、ある意味私の方も渾沌とした完全にオープンの状態になりますので、そこにこの仏のエネルギーが時空を超えてもたらされると、ミラクルが起きるのだと感じました。

気が遠くなりそうなくらい、意識が深みに入りました。眠りの直前のような。それでも、余韻から感じられたのは、他者に対して親切にすることは、その行為を行うよりも前に、その相手と既に繋がっているのだということと、親切を発現する者とそれを受け取る者のエネルギーのやり取りはこの仏によってしっかりと保持されているということです。また、それを私達の成長のためにサポートして下さっている仏なのだと思いました。本来の親切な心が抱くエネルギーや愛といったものは、宇宙の泉から送られているのですね。今この教えを得て、自分に親切になり、ありのままで満ち足りた状態を生きることを存分に味わうことを自身に許そうと思います。そのためには、日ごろの行動が自分にとって真に親切なものなのか、自分自身に向ける思いや言葉は親切かどうかについて、意識的に生きようと思います。

【ミニ瞑想】

過去に自分に対して限界以上の仕事量を課してしまい、結果的に体調を酷く崩すということがありました。また、後になってきっと後悔するであろうと知っていながらも同じ行動をし続けてしまい敢えてそこから抜け出さなかったり、そこまで酷くなくとも自分自身を追い込むということもありました。その一連の行動のパターンを見ると共通したものがあります。自分を本当には大切にしていなかったということです。更にその底辺には、空虚なところを埋めたいという漠然とした欲求、渇望のようなものがありました。そんな過去には、形の無い世界があるから形の有る世界があることも、ラトナというものがあることも、教えが無かったために当時は知りませんでした。意識の拡大とスピリットの成長とともに小さな自分というものが無限や完全な解放の完了にまでも至る可能性を知りませんでしたし、所詮は変化したり消滅していくものを次々と追い求めては満たされたと感じる幻想を抱いていたからです。当時は一時的に満足してもすぐに不安になったり虚しさが広がったり、淋しかったり、何かが足りないと感じたりしていました。苦しみが伴いました。もちろん、それも学びのキッカケになったので、それ自体が悪いということではなかったのです。教えを得る素晴らしさと同時に、悩んだり苦しんだりして超えて来た暗闇もまた、今いる道に繋がる自身の選択に他ならなかったのだと思います。そして、仏の教えを得ていくうちに、気づいた時には不思議にハードルを超えていたという現象が続いていることに気づいております。穏やかに変容が起きていくようです。このミニ瞑想は、以上のことをしっかりと感じ取らせてくれました。

【122 Tathāgataśakti 如来爍乞底】12のパワー

・全体的な感想として、波動がいつもより物質の身体に響き、体調に影響がでそうな感じがありました。
・両日(6月10-11日)ともに一部の瞑想で意識がないものがありました。
・1から12へ順に進むにつれ、波動が深く浸透するようでした。
・11「満足」で1から10を体験し11の波動を体験した際、言葉にすると変な感じですが、「空」でありながらも満ち足りている⁉ようでした。この瞑想では急に熱くなったりするなど、身体の変化が大きかったです。
・12で、プラジュナとジナーナを一つの知性として融合したら透明な殻のようなものが割れ、何かが流れ出し、尽きることなく広がり続けていくような感覚になり、身体に軽さが生まれた感じがありました。

まず最初に、タタガタシャクティというこの仏のサンスクリット名と1番目のパワーの波動が唱えられると、あらゆる霧が全部拭い取られて意識が晴れ渡るような感覚がありました。

2つめの波動では全方向的な豊かさが感じられ、それは表現していくことに他ならないと思われました。

3つめの波動では無限のやり取り、それは人間同士だけでなく高次の存在や宇宙そのものとのやり取りも含まれますが、それがどこまでも拡大し継続していくにつれ、豊かさも増大していくようでした。また、その感覚で癒されたり、バランスが取れたりするようでした。

4つめのパワーでは、全ての感覚器官から感じ取るという期待を手放しました。すると、空っぽになったようでもあったのですが、瞑想直後に感じたことは、エネルギーの完全な受動体になっていたかも知れないということでした。

5つめのパワーでは、自分をありのままに表現してはいけないという鎖に囚われているのが判りました。今まで、その自覚はありませんでした。意識を少し遊ばせると、子供の頃の家庭環境による影響というのが浮かび上がりましたが、一旦それを手放して更により深い背景を探ってみました。すると、そのような周りからの強制的な影響は実は存在せず、10代の頃から、そして大人になってからも「家庭環境による影響」であるとか「生まれついての性格」であるとかいう言い訳をしつつ、自分を解放しないためのストーリー(因果関係のドラマ)を内側で構築してしまっていたことに気づきました。また、更にその底辺には人間のサバイバルと密接に関係している恐れが存在していました。因果関係のストーリーが存在する時は、それを内側で作り出した底辺を最後まで見切る必要が、こんなところにあるのだなと思います。自分に対してダメ出しをする理由を作り上げたのは他でもない、自分自身でした。この瞑想の許しのパワーは、通常私達が認識している定義の許しとは異なり、もっと大きな大きなものでした。そして、鎖で拘束してきた自分を許し、過ごしてきた時間を許し、関わってきた人々を許して手放すタイミングは「今だ!」と感じました。縛っていた鎖を断ち切って解放し、意識の自立を果たすのも、自分のスピリットを成長させる権利がある自分の責任だと、この瞑想で自覚しました。許しの波動で解放した後は、本当に肩から何か重たいものが下ろされた感覚が伴いました。凄く軽くなりました。吸う息も奥深くまで入り、体の隅々にまで酸素が染み渡るような感じでした。ハートの辺りには心地よいスペースができたと感じられます。

6つめのパワーでは、生命力の根本のようなものでしょうか、可能性を感じました。形がない、条件付けのない漠然とした可能性です。それを秘めた状態のまま漂うような在り様を感じていました。

7つめのパワーでは、形になる前の状態を内側に置きながら表現することで、コミュニケーションを取る相手と自分の意識に変化が生じ、お互いにシフトするのが感じ取れました。

8つめの瞑想は強い睡魔に襲われました。意識が深い所に留まっていました。瞑想直後に余韻を感じ取ってみたところ、形になる前の世界を保持しながら、そのスペースの深みにじっと佇んでたようです。ずっと漂うような余韻に包まれ、変化しない在り様だったと思います。

9つめのパワーによって、非常に美しい、言葉にできないような体験で満たされました。最初はジナーナの知っている感覚にも似ていました。全てと繋がり、全てを知っている状態を支えている根源のエキスというでべきでしょうか。他者にこの波動を放てば自分が更に満たされます。また、「安心」「許し」「楽」「バランス」「静かな深い喜び」などが濃密に混ざったかのようなエネルギーが、空間の全てを埋め尽くしていました。

10個めの瞑想が始まった直後から、顔の皮膚、特に口の周りや頬の辺りの皮膚が細かくムズムズと振動しているのが気になりました。何度もこの波動を耳にするにつれ、意識が拡大するのと同時に皮膚のムズムズ感は消えて行きました。何かが完了した感覚であり、自我を手放すと、一層波動の余韻が深みに浸透していくようでした。ここでの体験は言葉にするのが特に困難ですが、敢えて言うならば、始まりと終わりが一つになったような感じです。より体験を深めようと思考が多少でも動くと体験があっと言う間に遠ざかり、その思考の動きを手放して感じることだけに再度集中すると、また深い体験の中に即座に戻るということがありました。一度の瞑想では到底吸収しきれないと思いました。

11個めの瞑想では、すっきりとした解放された喜びを感じていました。思考は多分何も浮かぶことなく、全てを受け入れられるポテンシャルだけがそこに在るという感覚です。

12個めの波動だけは、ここまでの11個の波動とは大分異なる体験となりました。特徴は、このパワーの純粋さと、そのエネルギーの強さです。動きのようなものも感じられます。形となる前の世界と形のある世界の中間(ゼロポイント)に自分がいると思いましたが、この段階の波動には方向を示すベクトルがあるような気がしました。強い力を秘めた方向性を持つベクトルで、それは形のある世界の方向を指し示しており、形になるまでの過渡期の微細なエネルギーには想像以上に男性性の強いエネルギーも使われるように感じられました。

【121 Tathāgatamaitrī 如来慈菩薩】

この仏の波動を感じ取って一つになってから、主に父母を招き、共にその場におりました。また、瞑想の終盤には意識の中に2人の友人が現れ、慈悲慈愛を以て波動を届けると良いなと感じ取っていました。このセミナーを受講する直前まで何回となく感じていたこととしてメモした内容の中に、「ヒーラーは相手を癒すことはできるが、本来の目覚めは教えがなくてはなされない」ということでしたが、この瞑想中にも同じことを感じていました。

【123 Tathāgatamuditā 如来喜菩薩】

ここでの喜びの感覚は、このスペースそのものでした。他の要素は一切ありません。何かの刺激を受けて感情が動く結果としての動的な感覚とは異なるので、日常の人間としての喜びとは在り様が異なりました。ところが、Tathagatamuditaa(単音のaga)となると、その喜びが形となって動きが生じ、喜びが他者に向かう感じや、仏としての親切な行為・言葉・思いが完了した喜びがより生き生きと身体の感覚としても感じられました。喜びが更に展開していく感覚も少し掴めたと思います。言葉も行為も思いも、全て自身に対する親切な愛に満ちたものとして大切にして、それを他者にシェアするというのがとても素敵です。美しいです。自分も他者も深いところでは同じであるということは、最近特に特に感じていることでしたので、その真理がこの瞑想でまた少し浸透したように思います。

【121 Tathāgatamaitrī 如来慈菩薩】&【123 Tathāgatamuditā 如来喜菩薩】

本日のセミナーでは瞑想の途中で意識を失ってしまいましたが、受講した後、エネルギーがシフトしたようです。
このタイミングで受講させていただいたことに感謝しています。
「真に親切な心は自分の中から始まる」ことに関するミニ瞑想は、とても貴重な体験でした。
人として生命(いのち)への執着(サバイバル)から行動していたこと、自分に親切にするという選択を知らなかったことに気付きました。自分を許し、慈愛を持って受け入れることができました。ありがとうございました。
 
私はラトナを学び始めたころから抵抗感や違和感があり、そこからなかなか抜け出せずにいましたが、最近ようやく人として生きていくうえでのラトナの役割や必要性、活かし方を理解できるようになり、学び続けてきて良かったと思っていました。
でも今日のセミナーでラクシャバジュラを探り、ビルさんのお話もありました、このカルマを生まないラトナを習得したいと感じました。
 
これまでにも四無量心を学ぶ機会はありましたが、その度に気付きがあり救われてきました。今回も貴重な体験となりそうです。明日のセミナーもどうぞよろしくお願い致します。楽しみにしています。

【ミニ瞑想】

「真に親切な心は自分の中から始まる」ことに関するミニ瞑想は、とても貴重な体験でした。人として生命(いのち)への執着(サバイバル)から行動していたこと、自分に親切にするという選択を知らなかったことに気付きました。自分を許し、慈愛を持って受け入れることができました。ありがとうございました。
私はラトナを学び始めたころから抵抗感や違和感があり、そこからなかなか抜け出せずにいましたが、最近ようやく人として生きていくうえでのラトナの役割や必要性、活かし方を理解できるようになり、学び続けてきて良かったと思っていました。でも今日のセミナーでラクシャバジュラを探り、ビルさんのお話もありました、このカルマを生まないラトナを習得したいと感じました。
これまでにも四無量心を学ぶ機会はありましたが、その度に気付きがあり救われてきました。今回も貴重な体験となりそうです。

【124 Tathāgatopekṣa 如来捨菩薩】

一人ではなく何人もの人が意識に現れました。過去に共感した人だけでなく、多分これから共感する人たちもです。そのうちの一人にフォーカスを当てると自分のセンタリングが失われて咳込むという反応がありました。しかし、別の人にフォーカスを当てながら瞑想を進めると共感やフィードバック、相手も自分も同じだということが受け入れられたのです。意識に入れるとセンタリングが失われる相手は、私自身がエゴを以て見ていたのだと気づきました。それは、周囲や他者と戦わない方が良いのになと思って私がみていた、ラディカルな言動を繰り返している女性でした。自分自身の中にある同じ要素に対するそうした見方が、目覚めの道を疎外している分離であり良し悪しの一つであることに気づかされました。

【四無量心を3つのレベルで体験する】

今の多くの人々が大事だと思っていること、ビジネスであったり経済であったり、利益であったりという分野と、今こうして自分が教えを受けて知り得た光と意識の世界が、とても隔絶していると感じていることに気づきました。相手が公となった途端に壁ができてしまいました。私が言葉にしても、全く受け入れられないのではないか(キャッスルの生徒以外には)という想いが浮上してしまったのです。瞑想の後半では物凄い恐れが浮上してしまいました。何故か昨日のセミナーで断ち切ったはずの、祖母が原因となったと自分で思い込んでいた鎖「誰かに対する深い慈愛を表現すると、必ず自分がその後に生きていけないと感じるほど相手から心を傷つけられ、全否定される」という想いが強烈に再度浮上してしまいました。この点についてはなかなか解決法が見出せませんでした。ところが、瞑想の最後になると、もしかしたらこれが公に対して私ができる最大の貢献となるテーマかも知れないと思い、自分を認めて慈愛で満たすことを基本に、文字や言葉や行動で表現していくのが解決への突破口かも知れないと思いました。

本日も瞑想の途中で意識を失ってしまうこともありましたが、公(おおやけ)のレベルの瞑想は、貴重な体験となりました。
自分の透明な殻のようなものがあり、全体としてクリアな共感に至っていないように感じました。
瞑想しているうちに大日如来尊に溶けていくようになりました。溶けた後は、自分の姿かたちはないけれども在る⁉不思議な感じでした。
ディビアチャクスースを体験した際には、それ自体になったように感じました。そこから頂いたアドバイスは、クリアかつオープンで在ること、よく聞くこと、共感から解放へ至ることでした。
 
共感(相手が感じているそのままを感じること)、五仏セミナーで学んだ大円鏡智を探り、自分に親切にすることから自分の浄化を進めようと思います。

【文殊院】

【140 Mañjughoṣa 妙音菩薩】

本日も興味深いセミナーを開催いただき、ありがとうございました。
誘導でカオスのランダムな波動となった以降、意識を失ってしまいましたが、瞑想が終わる頃になると意識が戻ってきました。引き続き、感覚器官を伸ばしていきたいと思います。
最初の瞑想の感覚器官を整えるパドマの部分で、汚泥から伸びた茎の先に咲く蓮の花の誘導の部分で、現実の中に生きながら現実を超えるという感覚を垣間見ることができたように思います。
最後のミニ瞑想は、今の私にフィットする誘導瞑想でした。調和から人生を創造していきたいと思います。ありがとうございました。

【155 Acintyamati 不思議慧童女】

不思議慧童女の瞑想での体験は、先日のホログラフィックな意識の体験ほど明確ではありませんでしたが、それでも拡がり、緻密さ、神聖さ、エンドレスな変化のエネルギーは感じ取れました。感情的ではなく、一見カオスのようでありながらメカニカルな秩序を感じました。全体は個を映し、個は全体を映し出すという宇宙の秩序の中に私たちは存在しているのだなあと改めて思います。

【146-147 Kiṃkariṇī 文殊奉教者、148-149 Kiṃkariṇī 文殊奉教者】

無意味で表面的な会話の中身が本当に空っぽであることを探った時、他者とだけではなく自分自身に対して繰り返し無意味な問いかけや同じ言葉を語っていることがあるのを発見しました。それは目覚めを遅らせたりする障害でしかないので、もうやめようと思います。

kimkariniiからのメッセージは、「自分のエゴを手放すには、他者がどうすればエゴを手放せるかを思い、言動を使って貢献することでマインドと思考を満たしなさい。それが即ち、自身のエゴを手放すことになる。他者と自分は同じなのだから」というものでした。このメッセージはkimkariniiのマインドと私のマインドが一つとなり、あたかも自分自身からのメッセージであるかのようにもたらされました。

moksa(解放)は、選択の自由を完全に持つことであること。エゴを手放し自身を解放することで、いかなる瞬間においても創造的な選択をしながら存在することができる。魂は全ての創造が行われるスペースそのものなので、解放は魂が本来創造的な存在であることも意味する。と、このような洞察が得られました。
MAの波動は進化し続ける意図を持っているという真理から、自他共にMAが進化するように語り行動しなければ、自身のMAの進化が停滞してしまう。それは宇宙はホログラフだから。故に教義(真理への道)の学びと他者への伝授が必要なのだと悟りました。このことは、目からウロコでした。私ができる伝授の最適化とはどのようなものかと、ふと想像しました。

自身の解放(moksa)には他者のMAの進化と解放も必要であり、他者の解放には、他者が存在として自身は何なのかを理解しMAを進化させる手助けする必要がある。宇宙は、全ての存在が特定の共鳴を選択した結果として物質を存在せしめていること、解放によって完全な選択の自由の自覚を得られることを私は伝えるべきだ。無の意識から行動できるところまで、意識の拡大を手助けするのが良い。それは先に学ぶ者が必然的に成すことかも知れない。このような洞察を得ました。行動するときが来たと感じています。

【ミニ瞑想】

ミニ瞑想で発見したのは、まず私は他者に余り謝罪したことがないということです。逆に謝罪を夫に強要したことがあり、それは自分が夫の言動によって傷つけられたというエゴから生じる幻想に基づくものでした。空虚になった部分を何かで埋めたいという欲求があり、それを相手からの謝罪で埋めようとした行為でした。そのことに気づきました。

アナさんがこのミニ瞑想をされた時の体験談(アナさんがビルさんに謝罪されたこととその後のアナさんご自身の反応についてのお話)を伺い、ひとつ気づいたことがありました。まず、「謝りなさい」という声がアナさんの中で沸いたというのをお聞きした瞬間、私は全く逆のパターンを一瞬想像したのです。実際には、謝罪の必要がないにも拘わらずアナさんがビルさんに謝罪されたのですが、私が瞬間的に想像したのは、ご自身ではお掃除をなさらないビルさんに対して、アナさんはこの機会に「ビルさん、私に謝りまりなさい」と謝罪を強要しようとされたのかと勘違いしたのです。もしも私がアナさんの立場だったなら、きっと夫に対して「普段の掃除を貴方はしないので、そのことについてまず謝って欲しい」と夫に謝罪を強要したと思います。それは、「いつも私が掃除をしてあげている」という想いの底辺にある自身のエゴに根差すアンバランスを、相手に「謝罪させる」という形を選択して相手を使ってバランスを取ろうとする行為だと気づきました。謝罪が不要な場面で敢えて謝罪してしまったことによりエネルギーが瞬時に落ちてしまわれたアナさんと、謝罪を強要することでエネルギーが瞬時に落ちてしまう私と、その原因が類似しているばかりでなく、もたらされた結果は酷似していたなのだと気づいたのです。原因は両方とも日本の文化的なものが確かに背景にありますね。そして、それだけではない個人的な歴史から来るエゴも私の場合は含まれていました。そしてどちらも、日本独特の文化的・歴史的なものに根差したエゴと、エゴへの抵抗と、満たされない部分があるという幻想がもたらしたものだと思います。私自身の思考と言動に現れるものをよく観察し、自覚して、解放する必要があると感じます。

【除蓋障院】

【ミニ瞑想】

本日の胎蔵曼荼羅セミナーの除蓋障院は、最近超えられずに苦しみ悩んでいたことにマッチしたものでした。 

除蓋障菩薩のミニ瞑想では、涙が深いところから湧き出ました。4つの障害を越えた自己の奥深くには、蒼い静寂でクリアな空間で沈黙と共に目を閉じ眠るように青い蓮華に座す仏が見えました。 

手放した障害を生み出したのは、自分の身口意(三密)であり、それには自己の執着が影響していたことを感じ、ハッとしました。最近、変化する流れの中に身を置くことに少しずつ対応できるようになり始めていますが、安定を求めたり変化を避けようとするところから執着に繋がっているようにも感じました。 

無から生まれ、無と共にあることを意識の外に置いていることを、改めて感じる機会となりました。自己の在りようの透明性や純粋さにも意識を向けてみようと思います。

【156 Sarva-nivāraṇā-viṣkaṃbhī Bodhisattva 除蓋障菩薩】

障害の目的は、それに気づいて取り除き霧のような覆いを一掃して目覚めを促進することですね。数日前、インド哲学を学んできたという親類の女性との会話で、例え学びであっても固定的概念に執着すると、意識のさらなる拡張を妨げて固定的になってしまうことがあることを発見しました。ちょうど本日のセミナーの少し前のことでしたので、タイムリーだと思います。

学びや教え、体験に執着することでエゴが手放せなくなっている状態を相手の中に観ましたが、とりもなおさず、それは私自身についても同じことが言えると感じたのです。本来ダイナミックなはずのリアリティから、かけ離れてしまいます。
どのようなレベルの学びであれ瞑想であれ、意識がアクセスする範囲も質も時々刻々変化していくにも拘わらず、ある時点の学びや体験に固執することは成長を停滞させ、目覚めの障害になり得ると感じました。先ほどの瞑想では、AHを使って障害を取り除くプロセスにおいて、4つめのレベルで意識の中心に爆発のようなエネルギーが生じました。

【157 Sarvadāhapraśamita Bodhisattva 折諸熱悩菩薩】

折諸熱悩菩薩の追加瞑想では、向こう岸の意識をフルに体験できたと思います。全ての曇りが一掃され、スペースが奥深く陰りがない状態で、そのスペースそのものと意識が一致している状態でした。陰りが無いということが、ある範囲に留まることなく、その度合いも深さも際限なく拡大し続ける、という体験でした。向こう岸をこのような形で体験できたことに驚きを感じています。

【158 Karuṇā-mṛeḍita (mati) Bodhisattva 救護慧菩薩】

幾つも浮かぶものを書き出すうちに、本来何も無いところに、苦悩の要素を意識の中で作り出し勝手に悩んでいたことがよく判りました。全ては自分が作り出した幻想であり、それは個としての私だけではなく多くの人々意識が歴史や文化の中で共鳴し合って作り出している幻想を自分のものとして経験していたような気がします。本来何も無いところに何かを存在させて執着することで、一時的に喜んだり長く悩んでみたりしているのが、地上の世界であり人間なのだなと思いました。この視点からは、様々な事柄がより明確にはっきりと浮き彫りになり、手放すのが簡単な気がします。

【159 Mahā-Maitryabhyudgata Bodhisattva 慈発生菩薩】

慈悲慈愛の波動そのものであるこの仏は、自身が際限なく完結したような心地良い状態を体験させてくれました。満ち足りている、という波動とその共鳴です。他者も自己もみんな同時に満ち足りているという体験でした。慈悲慈愛とは満ち足りているという溢れるような至福の共鳴であり、そこから取る行動は、満ちているものをお互いにシェアし合う感じです。それは、何かが足りないところに与えるのではなく、存在としての私達に元々備わっている満ち足りているマインドの側面を共鳴し合い、波動として宇宙に放つことなのだなと感じました。

【160 Acintyamatidatta Bodhisattva, Sūryaprabha 不思議慧菩薩、日光菩薩】

良し悪し、優劣をつけて、批判したかった相手が3人浮かんできた。批判したい気持ちの理由は、彼らの進化が停滞していると感じたり、肉体の生命への執着が強い過ぎると感じたり、自分の在り様に気づこうとしないと感じたりしたためです。シュリアブラバの波動よって、それらが私のエゴがもたらす優劣に基づくものであり、私自身の目覚めへの執着に基づくものだと判りました。
ワンネスに至って、そこから3人に対して感じていたエゴの意識を観察すると、そのエゴですらダメなものではないのだと感じました。それでも良い、それも一つの側面に過ぎないのだと感じられ、意識自体が軽く明るく、平らになった気がします。

【161 Bhadrapāla Bodhisattva 賢護菩薩】

直前の瞑想(不思議慧菩薩の瞑想)で浮上した3人が、ここでもまた浮上しました。御真言が唱えられると、マインドの状態が初めて体験する質へとシフトしました。本当の自身(真証の自己)とはこのような感じなのかと思いました。この仏の意識の中に3人の相手をそれぞれ込めてみると、それは、彼らをまるごと包容するという感じです。その時、私の意識はより大きく拡大している事に気づきました。包み込む度に、小さな自分も相手も包容する純粋な意識自体になっているようでした。

【162 Abhayaṃdada Bodhisattva 施無畏菩薩】

施無畏菩薩の瞑想では、輪廻転生から解放されるには、既に解放されている意識をもって生きること、という洞察が生まれました。恐れを抱かない人生とは、RAの進化にフォーカスして生きること、そして、RATNAの輝きと共鳴を知りながら生きることだと感じました。Moksaの先の意識、つまりは既に完了し解放されていることを知っているレベルでRATNAを生きることだと思います。

【163 Sarvāpāyajaha Bodhisattva 破悪趣菩薩】

瞑想に入る前は、何を悪というのだろうかと想像を巡らせましたが、不安や恐れや、それらに基づく行動の先送りなどが悪なのだと解りました。私達をサバイバルの次元に後退させるような要因は全て悪なのですね。この瞑想は何度も来ない、ここでもたらされた5つの波動にしっかり馴染みたいと思います。この仏は、後退はあり得ず前進しかないことを教えて下さり、私達に勇気を与え上へ上へ、先へ先へと、一人も取り残すことなく引き上げてくださる菩薩なのだと思いました。

【164 Paritrāṇāśayamati Bodhisattva 悲愍慧菩薩】

現在飼っているチワワは他の犬と比較して既にかなり進化していると常日頃感じています。生後3か月の時から、多くの動物の生まれ変わりを体験してきた生命だと思えました。察したり、共鳴したりする能力、あるいはコミュニケーションする能力が高く、その能力は人間に対しても他の犬たちに対しても発揮されています。動物が登場するテレビ番組が好きでよく観ていますが、そこでも自分が知らない様々なことを、学び取ろうとしているようです。表現の手段も多く存在することを理解しているようです。もしかしたら、彼にとっては畜生界における最後の生涯をたまたま飼主である私達と過ごすことになっているのだなと、日々感じています。ですから彼を手助けする責任があると自覚しています。

犬を観察していると、空腹時における「お腹を満たしたい、食べたい」という欲求は、その時々の様子から、私達人間のそれとは比べ物にならない痛みのようなものだろうと思うことがあります。また、様々な新しい体験をしたいという願望があることが非常に強く感じられます。たった1時間であっても、その短い生涯の中の大きな時間なので、よりエキサイティングに過ごし、学びとともに意識を拡張したいのだろうとも思います。

飼主として私に何ができるか、あるいは何をしない方が良いのかと、瞑想の中で自問自答しました。自分の接し方、行動の底辺にある感情や飼主としての勝手な思い込みを見直そうと思いました。犬自身が生まれて来た深い意図と選択に委ねることが大切だと改めて思います。種を超えた慈悲慈愛をどのように表していくかということは、多分次の転生で彼が今度は人間として学び取っていくことになるでしょうから、まずは今の飼主である私自身が最適に表現する必要があります。可愛いですが、自分のその感情に執着しないで見際めなければなりませんね。

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