説明
ここでは、10個のチャクラを一つひとつ体験します。サムギタ・ラトナ・カラの聖典では、10個のチャクラの使い方を、チャクラ毎に詳細に探っていますが、各チャクラには、蓮の花びらが存在しています。花びらはチャクラの属性を反映しており、それが、どのような波動を持っているのかを探求することも出来ます。
実際に、「地球の波動:クロコアイト」セミナーや「胎蔵マンダラ」セミナーで、このチャクラのシステムの一部を使用して、自己の過去のパターンをオープンにし、執着を手放すプロセスを行ったところ、私たちの意識に大きなシフトが生まれました。このチャクラ・システムが、意識の覚醒に、いかに重要であるかが明らかになりました。
さらに各チャクラにある花弁(葉)を選び、掘り下げて体験すると、花びらの持つ基本的な属性を探ることもできました。非常にエキサイティングな体験でした。
たとえば、最初のチャクラの花びらの根底に見出される喜びを波動を発見したり、最後の王冠のチャクラにある千枚の花びらがもつ、無限の可能性なども探りました。目を見開くような体験となりました。
みなさんの人生を変えるセミナーになるでしょう!
このセミナーは、その波動が、どのように現実を創造しているのかを探求したい人なら、誰でも参加できます。ご一緒に、この画期的なチャクラのシステムを学んで人生を変容させませんか。
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【第1チャクラのご感想】
第一チャクラでは歓び(意識、スピリット、人等すべてを含めた)を感じました。第二チャクラと第三チャクラでは、人として生きていく中で創造された(⁉)エネルギーをピュアなエネルギーとして体験する機会を頂いている気がしています。第二、第三チャクラで体験するエネルギーに関する、人生における経験は沢山ありました。自己肯定や自己受容等に繋がりが感じられるものもありました。
これまでに手放してきたつもりでしたが、流れているもの、少々引っ掛かっているもの、まだ引っ掛かっているものと色々ありました。今回、流れに戻す経験をできたことで、引っ掛かっていたのは自分で、流れるのが自然なのかもしれないと感じました。(手放すというのと、流れに戻すというのはエネルギーも違う感じがしました。)
変化することを受け入れていると思っていましたが、思っていること自体、頑張っていることのようにも感じました。
変化するとか、しないとかにもこだわらず、流れているのが普通で、それを自然なありようとして生きると、見える世界も変わっていくのかもしれないと感じました。
【第2チャクラのご感想】
第二チャクラを学んで、これまで自分が願望を積極的に抱くのが苦手でしたが、チャクラの学びを深めれれば、現実のレベルで意図や願望を抱くことも抵抗なくできるようになるかもしれないと思えました。本日もミニ瞑想はとてもサポートになり色々と体験することができました。ありがとうございました。
【第3チャクラのご感想】
第3チャクラの花弁1枚目から3枚目まで誘導が終わった時点で、足裏の接地感が昨日と同じように強く感じられました。すると、頭頂のチャクラが反応しました。4枚目の花弁を体験すると更に頭頂チャクラが強く反応しており、他のチャクラも振動しているのがわかりました。
特に第 、第 チャクラも反応しているのがわかりました。映像として一瞬、4つの光の点が見えました。
[花びら1枚目]
花弁を見つめていると、お米とその胚芽のようなものが現れました。「種」という言葉が浮かんだがすぐに消え、更に瞑想が進むにつれて、何を体験しているのかよくわからなくなりました。体験が全くないような、何をやっているのかもわからない感覚でした。
[ミニ瞑想]掃除をしている時に時々感じてしまうネガティブな感情が沸いてきました。自分は何のためにこれをやっているのか分からない、という感情です。ジナーナを使ったら、その感情が消えました。
[花びら2枚目]
まず最初に、力強さ、詰まるような感覚や息苦しさがありました。子供の頃、大人たちの関心を一身に集めていた長女である私に弟が生まれ、2~3歳の弟を毎日いじめて泣かせていたことを思い出しました。更に、日常での些細なキッカケで始まる夫との口論で、とことんエキサイトしてしまう夫とそれに反応して冷酷な言葉を投げかける自分を思い出しました。しかしこの時、何故かとても積極的でアクティブさも感じました。愛犬をしつけるため、過去に犬が怯えるまで叩いてしまったことを罪悪感を伴って思い出していました。(未だスタックしている)
[ミニ瞑想]自分が人生で行った暴力的行為(相手に手をあげる、酷い言葉を発する)などの数々を思い出しました。小学校の時に、クラスメートの多くをいじめていた男子をいつかトイレで殺してやろうと思ったことも思い出しました。ジナーナを意識したら正義や正しさを剣に変えて相手を攻撃していることに気づき、それを手放しました。
[花びら3枚目]
ジバとして体験した時、かたくなな感じ、強烈な頑固さ、かたくなな傲慢さといったものを体験し、これは2つめの花弁の原因のようだとの洞察が浮かびました。
[ミニ瞑想]ジバと一体となってみると、母や家族以外の特定の人物に対する批判をしていたことを思い出しました。
[花びら4枚目]
夜の墓場のような静けさを感じ、4枚目の花弁としての自分を観察すると暗くて光が余り当たっていず、少しねじれたり、皺もあり、枯れたような色合いに感じられました。[ミニ瞑想]夫に受け入れられていない、愛されていないと感じることがある自分が浮かびました。ジナーナを意識すると、それまで見えなかった洞察が生まれるようで、愛されていないなどというのは妄想で、定義している「愛」そのものが妄想の産物なのだと認識しました。
[花びら5枚目]
日常で夫が行うことに対して「そんなこともわからないのか」とか「そんなこともできないのか」と感じ、ついつい声に出して伝えてしまうことがあります。また、その対象は夫だけではなく自分や、多くの大衆にも向けられていることがあるのに気づきました。「こうだから、こうなのだ」と決めつける癖がある自分をはっきり認識できました。この花弁は、2つめと3つ目の花弁に深く関係していると感じました。
[ミニ瞑想]夫に対して「加齢臭を彼自身が感じていなかったり気にしなかったりするのは、健康を軽視している証拠だと」と決めつけて批判している自分を見出しました。ジナーナを意識したら、私が条件付けをする癖があること、条件に反していると判断すると途端に相手を批判したい衝動に駆られることがわかりました。
[花びら6枚目]
自身が意味もなく小さくなった感じ。不安で、少し胸がドキドキしました。空白を埋めたくなる感覚、分離感、不安な状態のままの受け身で、前に進めないという感覚も体験しました。
[ミニ瞑想]夫に対して、自分が小さく卑屈になったように感じ、分離を感じることがあることを思い起こしました。取り残された孤独感もあることが浮き彫りになり、生きているのが嫌になったことすらあるのを思い出しました。何をしてよいかわからず、立ち止まったまま人生が先に進まなかった時が何年か前に長期間続いていたことも思い起こしました。理由はわかりませんが、ジナーナから見ると、1枚目の花弁と関係している気がします。
[ミニ瞑想]
当初、第2チャクラの目的は「肉体を維持して生き続けること」でした。ジナーナから このチャクラの流れを体験した後は、異なる目的に変化しました。実は、目的なのか、目的の背後にあるものかはわからないのですが、「成長して一つになりたい」という願望が隠れているのがわかりました。ジナーナの波動をもたらすと、それまでわからなかった原因やその背後にあるのものが明確になる場合があることが瞑想中に分かりました。手放す対象が明確になるので、シフトするのが容易に感じられます。
ジナーナによって、分離や、日常で持ち出す癖がある条件を簡単に見出すことができたのが驚きです。ジナーナをつかって条件付けをせずに、良し悪し抜きで他者と自分という「個」を見ることで、差別すべき対象ではなく、お互いの違いを個性、特徴と捉えられる可能性があると感じます。
[最後のミニ瞑想]
スタックしたような感じがあった部分では、先に行われた各花弁の瞑想とは異なり、他の過去の体験ではなく最近の夫との関係性ばかりが現れていました。まさに今朝、夫から別居の意思を少なからず持っていることを聞いたということもあると思いますが、このミニ瞑想で特徴的だったのは、夫も同じ部分にジバを置いているという洞察が伴ったことです。更に、意見の対立が多い部分では、彼も私も共に第3チャクラの特定の花弁にジバを置き続けていることだと思えました。第2チャクラについても、同様のことが起きていたようです。
【第5チャクラのご感想】
第5チャクラの瞑想が始まった直後に、一尊の御仏がお姿を目の前に現されました。有難い気持ちで瞑想がスタートしました。
チャクラの位置を意識した時、光る丸い筒のような空間の中心にニョキニョキとチューブのようなものが伸びるのが見えました。蓮の花の茎の途中のようでした。
[花びら1枚目]
瞑想中にふと合掌したい気がして、しばらく合掌したまま瞑想していました。瞬間瞬間に体感しているスペースがどんどん広がるような、目の前の扉がどんどん拡がり続けるような、あるいは自分が蓮の花ならばその花びらが次々の無限に外へ外へと開き続けるような体験でした。宇宙に向かって無限のスペースに自らが満ちていくようでした。
[花びら2枚目]
意識が非常に軽くなり羽毛か、あるいは霧のように感じられました。
ふわふわと楽に自然でありのままの状態を体験していました。
自己が存在しているスペース全体を意識が満たしている感じです。
[花びら3枚目]
瞑想の途中で地上を意識した時に、一瞬にして普段慣れ親しんだスペースでありながら、経験したことがないほどのシンプルさを感じました。その状態を少し観察しているうちに、2枚目の花びらの体験との違いとしてスペースがかなり限られた感覚がありました。
[花びら4枚目]
サラスヴァティ(弁財天)のお名前が浮かびました。次いで、手元にある胎蔵曼荼羅セミナーのファイルをランダムに開いてみようと思い、瞑想の途中でしたがファイルを開いたところ、その頁はSrimahavidya Bodhissattva(大吉祥明菩薩)でした。
胎蔵曼荼羅の体験のメモに目がとまりました。それは、ピュアな状態を人間として体感する方法(合掌と蓮の花の形)をこの御仏が教えて
下さったというメモでした。本日瞑想の当初にお姿を現された御仏は大吉祥明菩薩だったのだろうと思いました。
[ミニ瞑想]
3枚目の花びらで願望成就していることとして、最近の日常での主人の子供のような笑顔を見て自分も喜びを感じていることが浮かびました。全てを受け入れることにして、そのような場面が増えたこと、そこに導いてくださったアナさんとビルさんに感謝しています。
【第6チャクラのご感想】
1枚目の花弁では、エネルギーが強調されて流動性が小さくなり、居心地が悪くなり手放したくなりました。
2枚目の花弁では、首から下の部分が切り離され、声だけが強調されて存在するような感覚と虚しさのようなものを感じました。同時に、第1チャクラadharaが反応したように感じました。
3枚目の花弁では、胎蔵の大日如来尊の慈悲慈愛に包まれ護られているような感じや大日如来尊の存在を創造した波動にも包まれ安堵感のようなものを感じましたが、悉曇の波動を体験すると、それさえも執着である感覚がありました。
9枚目の花弁では、瞑想を体験した後に新しい基盤(揺れても戻る)を得たように感じました。プラーナ、マインド、身体に6つの波を統合した時、涙が出てきました。
11枚目の花弁では、過去、現在、次元を超えて満ちた感覚を体験しました。
12枚目の花弁は、セミナー時には1~11枚目の花弁は体験することができましたが、12枚目の花弁からは意識が飛んでしまいました。
12枚目の花弁は、再度セミナー後に瞑想62を行いましたが、1~11枚目の花弁までは意識があるのに12枚目の花弁から意識が飛んでしまいました。どうしても12枚目の花弁を意識を保ちながら体験したくて何度も繰り返し試みましたが、深く体験しようとすると意識が飛んでしまうので、最終的には誘導を聴くレベルとなりました。
12枚目の花びらの終わり頃の誘導瞑想で、「全てのものの中に自分が宿っている」、という体験をしました。えっ?と、目を見開くような、初めての在り様だったのです。現実では、分離・良し悪し…と感情的に反応することが多いので、地上に生まれ変わる以外の選択が自分にあるとは思えなかったのですが、アムリタをどう使うかの選択肢があるのだと、見せて頂けたように思います。第7チャクラへとどう繋がっていくのか、楽しみつつ探っていきます。ありがとうございました
【第7チャクラのご感想】
意識を保つのがやっとの瞑想でしたが、最後は平和な安心感に浸っていました。瞑想の間、ずっと目の前に渦巻きがあり、それはボルテックスを正面から見ているのだと感じました。それは、今までになく渦の層が数えきれないほど非常に細かく緻密でした。また、特に2枚目の花弁の時には、温かみのあるエネルギーに満ちた太いトンネルの中に自分がいて、そのトンネルは先が見えないほど遠くまでつながっているようでした。
【第7・8チャクラのご感想】
今日の瞑想は意識がないことが多かったです。昨日も凄いと思いましたが、更に凄いと感じました。消化するのに少し時間が掛かりそうです。 新しい感覚を習得していきたいと思います。来週のセミナーも楽しみにしています。
【第8チャクラのご感想】
「花弁1枚目」
すぐ前の第7チャクラを意識する部分で、第三の目の前に沢山の光の粒が
現れて集合しました。夜見る夢も地上世界の夢も、このようなプロセスで見ているのだと学びました。瞑想が終わった後、肩から上、頭上には、広大な白い無限の空間が広がっているのが感じられました。
「花弁2枚目」
後頭部、次いで頭全体、更には身体全体の様々な部分が、その部位ごとに異なる種類の細かい振動を起こしました。部分ごとに熱や冷え、そのほか様々な感覚がありました。いわゆる味覚とは異なり、物理的な身体とエネルギーレベルの身体の両方で振動を味わうというのがここでの味の楽しみなのかなと思いました。
「花弁3枚目」
途中でアレルギー反応としてクシャミを連発しました。この瞑想に限らず、自分が受け入れることができていない自身の隠れた部分に触れた時や、気づいていない執着に意識が触れるとクシャミが出ることに気づいていましたので、良し悪しが存在している部分に嗅覚が反応して教えてくれているのだと思います。この瞑想でも、本質を全て受け入れていないものが浮かんだときに願望との乖離をクシャミによって教えてもらった気がします。
「花弁4枚目」
体験を言葉にするのが難しいです。ジナーナから感じられる何かであり、日常の中でいつも直感と呼んでいるものの一番最初に来る瞬間の体験とそっくりでした。それは光でもなく、形状にもなっていないくて、第三の目や身体の目で見るものというよりは、全身で確かに感じられる一瞬の感覚です。馴染みがある感覚なのですが、この瞑想ではそれをより強く体験した感じです。
「花弁5枚目」
高次に意識を置いている時、意識がスペースと一体となりスペースそのものであると体験する時の感じと同じようでした。
サマヤもパマヤも同時にスペースと一つとなっている状態がこれなのだと感じました。
「花弁6枚目」
完全に意識が飛んでしまいました。全く記憶がありません。再度瞑想したいと思います。
【第9チャクラのご感想】
ステップ6では、地上での体験はいつでも作り変える自由があると感じました。それならば、手放すこともできると思いました。
「1枚目の花弁」
無数の多くのキラキラした光が浮遊しました。犬に寄り添い、家族に寄り添ってきた自分、自己変容とかヒーリングについて学ぶことを選択して自我に寄り添ってきたこと、ゆったり過ごすこともあること、愛犬とリラックスして愛することなどが次々と浮かんできました。2枚目の花弁:2年前に骨折した時も自分を見つめる時間ができたチャンスと捉えたことや、骨折中の予感として次の年には「全体が引き籠る年」になると感じて実際にコロナ・パンデミックが発生した時も、スピリチュアルに意識を伸ばすチャンスが到来したと感じたことが浮かびました。この段階の忍耐をマスターする期間でした。次々に光の波紋が現れ、花弁と融合するとチャクラが物凄く反応しました。
「2枚目の花弁」
2年前に骨折した時も自分を見つめる時間ができたチャンスと捉えたことや、骨折中の予感として次の年には「全体が引き籠る年」になると感じて実際にコロナ・パンデミックが発生した時も、スピリチュアルに意識を伸ばすチャンスが到来したと感じたことが浮かびました。この段階の忍耐をマスターする期間でした。
花弁を感じた時は縦に何本かの小さな光の柱が立ち、エネルギーとしては流れては消え、また流れが生じるような感覚がありました。仏のエネルギーと融合する直前に仏のようなシルエットが見え、融合した後は煌めき、まばゆさを感じました。
「3枚目の花弁」
過去に生き生きと働いていた時期、変化し始めて辛くなった時期があったこと、現在の意識の成長過程、未来ではマスターしたものとして「常に尽くす生き方」をしている場面が幾つか現れました。融合すると、非常に大きな強い光が次第に広がりました。1つの光ですが、拡大しようとするエネルギーが凄く大きかったです。
「4枚目の花弁」
育まれ、育むものとしての生き方が、これからの自分にとって公私ともに堅固になるのを感じました。融合すると、最初に複数のキラキラした光が現れ、それが凝縮して1点の強い点を形成しました。その点とは、小さな光の輪の中に空洞の穴があり、そこに吸い込まれていく感じでした。大切な地点に導いてくれる道標のようでした。
「5枚目の花弁」
私の犬を地面に頭から落としてしまった知人(先月、私がそのことでとても腹を立てた相手が女性)や、全く変わるつもりはないと言い放った主人も、法界の根源のありのまま、それはそれで宇宙のありのままの姿であり、カオスの状態なのだと思いました。逆らっても仕方なく、そもそも逆らう相手すら本当は存在しないと感じました。
融合すると、今までにない物凄く楽な感覚と、花弁を感じているスペース全体が緩み、「このままでいいんだ~」という感じが全体に広がりました。ラトナがとてもとても楽なのだと感じられました。最近立て続けに起きていた信じられないような行動をとる人々も宇宙の一部のありのままの表現なのだと思いました。
「6枚目の花弁」
眠ってしまい、夢まで見てしまいました。花弁を感じると、いきなり酷い頭痛に見舞われ、右側の首すじ、右目の奥に刺すような痛みがありました。頭痛が気になり、瞑想に集中できませんでした。なぜこうなったのか、全く見当がつきませんでした。前日の月食のせいかなとも思いましたが・・
この瞑想を行なったのは、2回目ですが、また頭痛がありました。これは、「不変性」の花弁そのものに対する何らかの抵抗なのか、あるいはそこに融合されるヴァジュラテジャのエネルギーのどちらか、あるいは両方に抵抗があるのかも知れません。明確ではありません。すぐにもう一度、3回目を、この花弁の部分のみ誘導にしたがって瞑想したところ、今回は頭痛は殆どなかったのですが、まだ体験は浅かったようです。あるいは、体験しているのに、それを左脳が認めようとしないのかも知れません。光もよく感じられないようです。何か起きているのでしょうか。仏の波動と融合すると全体的に微かに明るくなったようででしたが、ただそれだけ、という感じでした。もっとフルに体験したいと思いますが、どうしてできないのでしょう??
「7枚目の花弁」
眠ってしまったようで、夢を見ました。どこかの公園で知らない男の人が何かをしているところを見ていました。融合すると、四角い螺旋が幾つか現れました。それは次元をまたぐ動きをサポートしているようでした。視界の下の方に何本か弓のような青白い光が見えていました。四角い螺旋はそれ自体が動きをもっており、「形にするとそれ自体が加速する」というエネルギーを感じました。
「8枚目の花弁」
全くと言って良いほど朗らかさが感じられませんでした。瞑想が終わってすぐに、日常で面白いと感じた人のことを楽しいと感じゲラゲラ笑ったことを思い出しました。その人の突き抜けた自由さに共鳴したいたのだなと気づきました。花弁を感じると、一旦は反省という思考が頭をかすめましたが、「ロマアナチャ」という花弁の音そのものが「ロマンスのように聞こえる」と思って気持ちが楽になり、その後は純粋に花びらを見つめたと思います。融合すると、青白い横長に伸びる光の帯が現れ、その帯の中には無数の白い小さな光がびっしりと詰まっていました。
「9枚目の花弁」
何となくお祭りのような感覚を味わいました。融合すると、秩序、整えられるような丸く青白い光の玉を見ました。その光の玉自体がもっと大きな手によって撫でられ、整えられ、次第に光の周りがつるつるに丸くなりました。変化があって面白いと感じました。
「10枚目の花弁」
意識が保てませんでしたが、瞑想直後に色とりどりの光の粒子が一瞬見えました。楽し気でした。光のマーブルチョコレートのようでした。融合すると、象牙色をした大きな翼(右側の翼)が視界いっぱいに現れました。リアルでした。天使の翼のように見え、ゆっくりと上下に動き、守護も感じました。
「11枚目の花弁」
意識を保つのがとても大変でした。どっしりした感じがあり、左脳が全く動きませんでした。深い眠りのようでもあり、安定した究極の地に接地しているような感覚。雪の結晶のようなものも見えました。頑張らなくていいんだなと、うっすらと感じていました。融合すると、ウロコのようなものが視界の下の方に現れました。濃い黄金か光る茶色のような色合いで、ウロコはびっしりと多くあり、黄金の豊かさを感じました。
「12枚目の花弁」
エネルギーシフトが起きたのか、非常に身体が熱く感じられました。重力を感じ、瞑想後にも重たい余韻が残りました。融合すると、流れ落ちる滝のような光が現れました。スペースの中央に縦に割れ目が現れ、そこから強く白い光が現れて、次いでそこから同じ光が滝のように流れ出てきました。
「13枚目の花弁」
何のためにどんな努力をしていくかが、次々と具体的に現れました。日常のことから未来の大きなものまで、様々でしたが、一つの大きな流れから外れていないのが凄いと感じました。融合すると、場面が動き、動いた後に黒っぽい丸いものが幾つかそこから生み出されていました。何故か、ピアノとショパンの譜面が現れました。瞑想後に、作曲に生涯を捧げたショパンの生き方に自分が共鳴する部分と、このエネルギーの質が重なったように思いました。
「14枚目の花弁」
13枚目の瞑想で出てきたものを、この瞑想でも再び思い起こしました。ただしここでは、13枚目よりも、もっと感覚的にそれらのエネルギーを捉えていたと思います。融合すると、四方八方に放射する光を見ました。光が凝縮して強くなり、そこから放射が始まったのです。遍く照らし出す光線のようでした。
「15枚目の花弁」
今まで学んできた、そしてこれからも学ぶ様々な技能を使い、更にバージョンアップさせいく豊かさを感じました。人生の全ての側面が豊かになってゆく花弁なのだと思います。融合すると、花弁に仏の炎が宿ったようでした。カンボジアの遺跡の寺院で見た模様のある柱のようなものがまた現れ、神社の鳥居も一瞬見えました。ヒンドゥーの神のエネルギーと、その経典のエネルギーなど、仏と神々が花弁に融合したみたいでした。
「16枚目の花弁」
物凄く第9チャクラが反応しました。純粋なエネルギーの流れがピンポイントで流れ入るようでした。この花弁の体験は少しあやふやでしたが、融合すると、何となくではありますが、確固とした感覚、どっしりとした感覚がありました。
【第10チャクラのご感想】
第10チャクラの体験は、貴重なものでした。とても深遠な波動の世界を垣間見せていただいたように感じました。新しい人生の捉え方をする機会を得られたように思います。このセミナーを受講して、これから自分が確実に変化していくだろうと感じました。新しい可能性も感じたセミナーでした。セミナーを開催いただき、ありがとうございました。
【10個のチャクラシステム:レベル2 第10 チャクラの1000仏を目覚めさせる】のご感想
時間も空間もオープンにしたところで体験することを意識して瞑想しました。
最初は、自分の身体の中からビルさんの声の波動が響いてきて、その振動で自分の身体に波動が広がり、身体の外へ広がっていくように感じました。
途中から自分の身体を伝わる振動を皮膚で感じることがなくなり、自分が水のような⁉皮膚のない媒体⁉のように感じるようになり、区切りが分からない感じになりました。次元も超えどこまでも広がるけれど、波動が進んでいる方向は追えなくはないような感覚はありました。が、その後、意識で追えなくなったようです。ビルさんの声が耳に聞こえた時に、それまで意識が飛んでいた
ことを認識しました。1004仏の仏が異なる波動を持つことは感じることができたように思います。
もしかしたら、すべての仏の波動を自分がまとうこともできる⁉のか?という、今まで思ったこともないような気持ちが湧いてきました。
今日までに何度かこの瞑想を行いました。1月9日の1回目は、「ようこそ」のお話の中で、これから先に何百人もの人々が同じ瞑想スペースに加わるので、その方たちと共に全体の一部として瞑想を行うと良いというガイダンスがありました。
それを聴いた時に、目の前に両耳を手で塞いで苦し気に叫んでいる女性の姿が現れました。聞きたくない音が耳に入って来るのでそれを自身のすさまじい叫び声でかき消して聞こえなくしているようでした。左耳に、その叫び声の余韻が長いこと残りました。これは一瞬のことでしたが、不思議に思いました。何故かと言えば、私自身はこのお話に続く新年瞑想をやりたくて参加していたからです。何処かの未だ見知らぬ誰かのエネルギーだろうと、その時は思いました。実際に瞑想が始まってみると、途中でクシャミが止まらない部分があったりして、もしかしたら身体のエネルギーが抵抗しているかも知れないと感じました。ワンネスへの抵抗なのか、1000仏の波動の何かへの抵抗なのかは、最初はわかりませんでした。
ところが、翌日以降、何となく通常よりも明るい声で笑っている自分に気づきました。朗らかなのです。1000仏の瞑想では、もしかしたら人格レベルの私が気づいていない、高次の波動への強い抵抗があるのかも知れないと思いました。耳を塞いで叫んでいた人は何処かの誰かではなく、私自身の中の何らかの側面であろうと気づきました。
「そう思うのならば、1000仏の波動を何度も聞いて馴染ませてみてはどうか」というガイドの導きを感じたので、2回目、3回目・・と別の日にこの瞑想に取り組むことにしました。ただ、波動を浴びるだけですが、少しずつ変わってきたように感じています。
瞑想途中でのクシャミの回数も激減し、ビルさんが発せられる波動の一つ一つをより直感的に受け取ることができるように変化してきました。
本当に1004体の仏はそれぞれが固有の特徴を持っているのが、より鮮明に感じられます。
日常レベルでは、「自分は一切変容したくない、怒りでしか人に伝えられないことは変えるつもりはない」と言葉に出して言う人々にも出会いました。
いつかはその人たちも今世、来生、その先で目覚めを望むことになるだろうと思ったりしました。
しかし一方で、四諦か八正道のどちらかで取り組んだ「地上を終えるために見捨てる」ということを思い出しました。見捨てるのは知らん顔をすることではなくて、地上は常に不完全であり、それも成長過程においてのその時点でのパーフェクトな状態なのだということや、尊重しつつ見捨てても良いのだということを、まるで静かなスペースのように感じるということがありました。宇宙を信頼して、もっともっと委ねても大丈夫と、人格レベルの自分に伝えています。